逆に被支配者の影響を受けなければならぬ状態で、これが、現代亜米利加文明の弱点である。この事実は日本にもそのまま当嵌るので、教へるつもりの相手から逆に、教へられなければならぬといふやうな現象が、今日、到るところ、ざらに見られるのである。
 演劇にしてもさうである。当事者の方では、近頃の見物は芝居がわからぬから、ちやんとしたものを観せても客が来ないのだと思つてゐると、豈計らんや、劇場に行かない人々のうちに、却つて、当事者よりも芝居のわかる人が沢山ゐて、そんなものをやつてゐるから見に行かないのだと、蔭で嗤つてゐるのである。
 結局、大衆といふものは得体の知れぬものとして、さて、芸術の方面からいへば、大衆とは、結局、これを鑑賞する相手全体を指す以外に意味はなく、若し仮に、芸術の鑑賞能力といふ点で、その低きものを意味するのであつたら、これは、大衆でなく、俗衆であり、極端にいへば、芸術とは無縁の衆生である。
 強ひて、芸術の「大衆性」なる言葉を翻訳すれば、これは、正しく、古来より使ひ慣らされた「普遍性」といふ一語に尽きるので、これならば、何も議論をする余地はなくなると思ふ。
「大衆性」といふ言葉に
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