、出雲大社の巫女阿国が歌舞伎踊を演じたのが近世歌舞伎劇の起源だとされてゐる。この歌舞伎踊はまだ劇の形式に整へられてゐなかつたが、とにかく、その人気は日本全国に及び、見物の群衆が殺気立つて刃傷沙汰まで惹き起したので、遂に、寛永の中頃、法令によつて厳禁されたといふ記録がある。
女歌舞伎禁令後に栄えたのは、美少年を主役とする若衆歌舞伎である。これがまた同様に俗衆の好みに投じ、弊害も自ら生じたので、一度は禁止といふことになつたが、法の力を以てしても到底抑へることができず、いつか禁が解かれて、京、大阪、江戸に、それぞれいくつかの劇場が開かれた。多くは遊里を題材としたもので、わが歌舞伎劇の色調は既にこの頃から顕著となつた。
将軍義政の頃、浄瑠璃節といふのが起り、永禄年間三味線が渡来すると同時に、この二者が合体し、更に、慶長に入つて、操り人形の発達と共に、浄瑠璃操りの発生をみたのであるが、これと既に演劇としての形態を整へてゐた歌舞伎との交流が今日の歌舞伎劇なのであつて、近松門左衛門はこの機運を作つた偉大な先駆者である。
徳川期は既に歌舞伎劇の完成時代である。元禄年間では、歌舞伎は主として傾城何
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