がはひつて来る。
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男  御免。
底野  どなた?
男  かういふものですが、義務として、ひとつなにか……。
底野  なにをひとつですか。
男  絆創膏、又は征露丸……。
底野  薬ですか。薬は、一向、用がないんでね、家では……。
男  ですから、国家のため犠牲を払つた同胞への慰問と考へられて……。
底野  何処にゐるんですか、その同胞つていふ人は……。
男  われわれがその一人です。
底野  (起き上り)あゝ、さうでしたか。これは失礼しました。(玄関へ出て、丁寧に膝をつき)あなたがなんですか。それはそれは……。(考へて)まあ、どうぞ、お上り下さい。少し散らかしてますけど……。
男  いや、こゝで結構です。
底野  いや、そこぢやいけません。絶対にいけません。苟《いやし》くも国家のために犠牲を払はれた同胞の一人に対して、そんな待遇はできません。さあ、どうか……。それとも、おからだに、どこか御不自由なところがおありですか。靴をお脱がせしませうか。
男  いや、それには及びません。ぢや、ちよつと、こゝへ掛けさして貰ひます。えゝ、この証明書にもあります通り……。
底野  (それをさつきから読んでゐる)はあ、僕、これくらゐのものなら読めますから……。なるほど、間違ひはないやうですな。
男  はゝゝゝゝ。どうも、近頃、偽物が横行して、われわれは迷惑しとるです。
底野  本物はやりきれませんな。
男  何しろ、戦争当時乃至直後に於ては、世間も出征軍人とか、名誉の負傷者とか云つて、ちやほやしてくれますが、だんだん時日が経つにつれて、熱が冷め、忘れ勝ちになり、たうとう、振り向いてもくれないといふ有様です。
底野  よくしたもんですな。人間の冷《ひ》やゝかさは、恋愛の末期にだけ現れるんぢやありませんね。
男  所謂、癈兵、今日では別の名前がついてをりますが、その方が通りがよくて重宝です。この癈兵などに対する社会一般の態度は、日に日に、無関心を通り越して、一種の軽蔑反感にまで達してゐる。これは、われわれ一同の甚だ心外とするところで、かの戦場で、生命の一つ手前までを捧げた勇士の末路として、かくあらねばならぬかといふ疑ひをもつんです。
底野  御尤もです。失礼ですが、日清ですか、日露ですか。
男  わたしは日露です。得
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