利寺の激戦で、この通り、片腕をもぎ取られました。わたしなどはまだ仕合せな方で、今、この向ひ側を廻つてゐる男などは、両腕と片足を奇麗に浚はれちまひました。これは奉天です。
底野  悲惨ですな。今度の事件などでも、大分、あなた方のやうな人ができたでせうな。
男  できたでせう。しかも、みんな、われわれと同じ運命に陥るわけですが、本人たちは、今は、これを知らずにゐるでせう。病院で次ぎ次ぎに来る慰問者の花束に囲まれてゐる間は、そんなことに気がつかないんです。三年、五年、十年彼の饑《ひも》じさ、恥しさ、無念さは、夢にも想像してゐないでせう。
底野  国家は何をしてゐるんでせう。新聞は眠つてゐるんですか。富豪は何処へ金を撒いてゐるんです。
男  あなたのやうに云つて下さる方は、まつたく稀《めづら》しいです。
底野  稀しいことを、僕は悦びません。僕は、日本でたゞ一人、あなた方への義務を怠つた人間として、激しく非難されることをすら望みます。あなたは、この得利寺の激戦で、何隊に属してをられましたか。
男  野戦砲兵第三連隊第二大隊第四中隊第一小隊第二砲車照準手です。
底野  長いですな。そして、その激戦の模様、並に、あなたの御活動振りは? 照準手だとすると、さぞ猛烈に覘ひを定められたでせうな。
男  定めましたとも……。かういふ境遇で、自分の手柄話などするのは、あまり感心しませんが、わたしの中隊長粟屋大尉は……。

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この時、表から呼ぶ声。『おい、早くしろ。来るぞ、来るぞ』
男は慌てゝ薬をしまひかける。
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男  何れまたこの話は、この次の機会に……。どうです、この絆創膏を一つ……二十銭です。
底野  いや、折角ですが、絆創膏はあんまり……。注射は自分でやらないもんですから……。
男  傷をされた時には如何です。
底野  傷をするくらゐなら、針で縫ふぐらゐのやつをやるですからなあ。
男  早くして下さい。征露丸を一袋、それぢや……。
底野  征露丸つてやつは、僕の知つてる車屋が買つたつていふんですが、あんまり効かんらしいですな。熱なんか、なほ高くなるつていふぢやありませんか。
男  そんなことはありません。さあ、早く願ひます。連れが待つてますから……。これが三十銭……。
底野  もうなにか、
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