一対の美果
岸田國士

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       一

 近頃読んだいろいろな文章のなかで、私が特にこゝでその読後感を述べたいと思ふのは、それが今の私にとつて可なり重要な問題を含んでをり、それのいづれからも非常に珍しい感動をうけ、しかも、それらが揃ひも揃つて、所謂「非職業作家」の手になつたところの、甚だ示唆に富んでゐる二つの「記録」である。
 先づ最初にあげたいのは、女医小川正子さんの手記「小島の春」である。もう大ぶん前のことだが、何気なく家人がそれを読むのを聴いてゐるうちに、私は、これはえらい本が出たと思ひ、感興の深まるにつれて、この本は是非日本の多くの人に読ませたいといふ気になつた。私は暇を得て、それをもう一度読みなほしてみた。ところが、あるところまで読みすゝんで行くと、私は文字どほり泣かれてしまひ、それも、ひとところふたところといふのではなく、ほとんど読み終るまで涙を拭くひまがないくらゐであつた。こんなことは私は未だ嘗て経験したことはない。尤も、たまには、下らぬ芝居や講談などでつい涙ぐむやうなことがあると、きまつて後で腹のたつことうけあひで、さういふ効果をねらつた一切のものを私は排撃して来たのである。しかし、私は断言するが、この「小島の春」からうけた強烈な印象は、決してさういふ後口のわるいものではなく、寧ろこの感動の純粋さは、自分の心がたえず求めてゐる素朴さをやつととりかへした証拠だといふ風にみたのである。
著者の「後記」はこんな文句ではじまつてゐる。
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「いつの事であつたらう。園長先生が検診行の記録は全部くはしく書いて置きなさい。時がたつとその時の気分がうすらいで千遍一律の物になつてしまふから「その度々直ぐに書き残しておくんですな。土佐日記は出来てますか」と仰言つた。私が目を丸くして先生の後に突つ立つて居ると「出張してその報告書を提出するのは官吏としての義務ですよ」と重ねて仰言られた。義務といふお言葉が強く心に残つた事がいま忘れられない。さうして拙い手記が出来上つた。」
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また、かういふ一節がある。
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「現代文化の中にあり、皇恩のあまねき日にさへなほ病者の歎きは深いのに、今から四十年も前の遺伝思想の中に救ひの手の乏しかつた日の病者達のみじめさは想ひを超ゆるものがあつたであらう。その頃から病者の姿を凝視していらつしやつた先生には私達の知らない深い悲惨な病者の実情、出来事が山の様にその胸の中に畳み込まれてあるに違ひない。然し先生は何も仰言らず、また書かれもされぬ。」
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更に、その先に、
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「少しでも私がこの道に役立つた事があつたとすれば、それは皆その処々に於て隠れたる多くの尽力者があつたからである。」
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 小川正子さんは昭和四年に東京女子医専を卒業し、同七年、長島の国立癩療養所に職を得、爾来七年間、光田園長の指導下に、同園長の言葉を藉りれば『診療の間を利用し、「つれ/″\の友となれ」てふ御歌の御心を畏みて、土佐、徳島、岡山等各地の患家訪問』を試みた。その記録がこの「小島の春」なのである。
光田園長の序文の冒頭――
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「女医が癩救療に一地歩を築きたるは日本医学史に特筆すべき事実である。先づ服部けさ子女史の草津聖バルナバ医院に於ける、全生に於て西原蕾、嵐正の二女史の如き、大島に高橋竹代女史あり、我が愛生園には曩に大西富美子女史あり、本篇の著者小川正子女史あり。皆一身を此事業に擲つて悔なきの決心を有し、両親親戚の勧告に耳を藉さず、世人の批評に頓着なき男まさりの徒である。」
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それから、光田園長は女史を評してかういふ。
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「女子の臨床上にも一事を忽せにする事の出来ない特性は家庭訪問の上にも到る処発揮せられてゐる。(中略)此熱誠の根源は何れの処より来るのであるか、之れは畏れ多い事ではあるが、上、皇太后陛下の御軫念を奉戴し、私かに御使であると自任する強烈なる信念より迸り出づるからであらうと信ずる。」
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 さて、以上、著者並に光田園長の言葉によつて、小川正子さんといふ女性がどういふ環境に身を置き、どういふ仕事に生涯を委ねてゐた人かといふことがあらましわかると思ふ。
 そこで、私は、この書物によつて救癩事業の一般を知り、これを現代の社会問題として考察し、この事業に終生を献
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