げつゝある人々の名前を世人は記憶せねばならぬといふやうなことを今更云ひたくはないのである。
もちろん、それがこの書物の第一義的存在理由であらうけれども、寧ろ私は、この書物を書いたために、小川正子さんが他の同僚や先輩たちよりも、その道で特に「英雄的な人物」にはなつてほしくない。また、小川さん自身もそれを望まれないことは明かである。従つて、この記録を通して、著者が自ら語るところの行為は、公人としての半面と私人としての半面とに分けて考へなければ、その善さも美しさも、著者固有のものとはならないところに、作品自体の微妙な価値標準が存することを注意しなければならぬ。
この点は、現在の多くの戦争記録なぞも同様で、作者が自ら「この戦争を戦つてゐる」その行為の全貌のなかで、既に「わが兵士」としての姿が絶対的なあるものを押しつける。それが如何に無意識的なものであつても、読者は、胸をひろげてこれを享け容れざるを得ぬひとつの「感動素」があつて、これだけは必要に応じて批評の圏外におくこともできるのである。
ところが、「小島の春」では、著者が如何に公職を表看板にしようとも、それは問題にならないほど、著者の人間として、女性としての豊かで素直な心が、物語られるすべての事象のなかに浮き出てゐて、読むものゝ胸に、哀しみは深く、喜びは高らかに伝はつて来る。
なるほど、一方から云へば、癩患者の風貌とか心理とかいふやうな異常に凄惨な描写が到るところにあつて、これが全篇の最も緊張した部分をなしてはゐるが、さういふ場面の取扱ひが決して刺戟的でなく、却つて控へ目とさへ云へるくらゐであるのに、一人の患者を囲むその家庭の空気などは、名状すべからざる迫真性と切々たる感情の昂揚のうちに描きだされ、しかも、第三者をして聊かも絶望的な暗さのなかに陥らしめないその筆は、一体、何処から生れるのであらう。
「土佐の秋」中の「秋風の曲」や、「再び土佐へ」中の「暁の鐘」や、「国境の春」中の「合歓の花」や、「榾火」や、「淋しき父母」中の「旧家の嘆き」や、「小島の春」中の「桃畑の女」や、「哀別離苦」や、これら数々の挿話のもつ「悲劇味」の云はゞ古典的な美しさは、今日の如何なる文学のなかにも見出し得ないといふことを、私は、ふと考へ、「近代」が脱ぎすてたかにみえるこの衣装のどこかに、「現代」を装ふに足る新しさがありはせぬかと真面目に首をひねつた。
厳格に云ふならば、この著者は、文筆を専門とするやうな修業はしてゐないであらうし、ことに、もともとかういふ形で世に問ふべく書かれた作品ではないといふところから、散文として月並な形容や調子がちよいちよい混つてはゐるが、全体として、流暢な、水々しい文章で、間に挟んだ一連の和歌の、奔放に歌ひはなしてあるのが、昔の日記文学に通ずる風趣を添へ、烈々たる精神と行為とが、「ものゝあはれ」の近代的表現となつて、当節珍しい形式の報告文学を作りあげてゐる。
二
さういふわけで、私が「小島の春」からうけた感銘は、一言にして云ひ難いが、これを要約すれば、
一、かういふ女性がかういふ事業にこれほどまでに一身を献げてゐるといふ驚異的な事実はまづ措くとして、
二、下村海南氏の序文にも、「一等国である日本には、まだ癩の患者が到るところに、医療の手当にも恵まれずに散らかつてゐる。欧米各国では患者の全部が隔離され収容され、それぞれに手当をうけて余生を送つてゐる。そうした患者が相次いで天命を終つた時に、その国には癩が絶滅されるのである。日本ではまだ万余を数へる伝染病毒を持つ不幸なる患者が野放しになつてゐるのである」と書かれてあるが、その事実は私も予ね/\聞き知つて、他の一般社会施設の不備とともに、わが国の恥辱だと思つてゐたのだが、今日までさういふ状態に放置されてゐる原因の最も大きなひとつについて、私はこの「小島の春」にはじめて教へられたと云つてよく、それは、もつと研究をしてみなければはつきりしたことは云へないけれども、少くとも、その大きな原因のひとつといふものをまざまざと知らされることによつて、われわれは、所謂日本人として、声高に日本を弁護するところまで押しやられさうにもなる。が、それとは別の意味で、たゞ、しみじみと、わが家族制度の根深さ、恩愛の束縛の強さに、胸つぶるゝ想ひがするのである。
「小島の春」のわれわれを打つ力の重点は、そもそも、この暴虐な伝統的感情の、痛ましくも見事な詩的表現にあると、私は極言して憚からぬ。
三、しかも、かゝる場面に立ち対ふ、著者小川正子さんの心情の、如何に気高く「日本的」であり、健全に「女性的」であることか!
これがまた、本書のもつ近来稀な魅力を特色づけてゐるのである。
光田園長は、「彼女等の患者に接するや、診療の親切なるに加ふるに
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