こに男性と女性との違ひはあつても、ひとしく、すべてが尋常で、自然で、健康で、場所が場所とは云ひながら、自分の心と周囲の人物とを語る、その語り方のひたむきな善良さに於いて、両者はまさに好一対なのである。
 この「神経質な」兵隊の、類のない天真爛漫さは、所謂、逞しい文学的表現といふやうなものと、凡そその感動の質を異にすることは云ふまでもないが、これも亦、一個の得がたい戦争記録、戦争文学の頂点であると私は思ふ。
 しかし、かの国民の記憶に深くきざまれた、死闘数々の体験を作者は自己の血をもつて綴つてゐるといふことに、私はこの「呉淞クリーク」の重要な価値をおきたくない。やはり、「小島の春」にみるやうな、徒らに思索者の冷静を衒はず、さうかと云つて、闘士としての思ひあがりもなく、自己と対象とを密着させた位置で、頗る楽天的とも思はれるくらゐ習俗と歩調を合せて歩いてゐる屈托のない姿は、それが一方で果敢ない矜りをもつのであればあるほど、私には厳粛にみえるのである。
 豊島与志雄氏は、この作品の短評で、「私」なる人物が他の文学者の従軍記録のやうに薄ぎたない姿をみせないから、その点澄んだ印象を与へるといふ意味のことを云つてゐるが、これは私も大いに同感である。
 火野葦平氏の作品もその部類にはひると、豊島氏は書き添へてゐるが、私の考へでは、さういふ見方を一応肯定しつゝ、なほ、火野氏のものは、日比野氏の作品に現はれてゐる「私」とよほど違つた色合で、やはり、少々目障りなポーズができかゝつてゐるのではないかと思ふがどうであらう?
 勿論、私は、「呉淞クリーク」を「麦と兵隊」に比べて優れてゐるといふのではない。火野氏は、あまりに「兵隊」として立派にできあがり、自分でも恐らくさう信じ、さう振舞つてゐるところに、ある特色も認める代り、心理的にはいくらか物足らないところもあり、私などは、感心してもさう感動しないといふ変な窮屈さがあるのであるが、日比野氏の場合は、自分が兵隊であることの責任を自覚し、その信念によつて立派に立ち働かうとする決意を示しながら、なほかつ、訓練を遠ざかつた一予備兵としての、そして同時にまた、都会人、文化人としてのある瞬間に於ける弱味を意識し、これをカヴアすべく「教養」の綱にすがる悲痛な足掻きを描いて、われわれの不覚な魂をゆすぶつたのである。これは、今度の事変を通じて、一番時代的な問題
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