ういふ事実が偶然あつたかも知れぬ。しかし、この宣教師の肩を持たうとするものでなくても、それだけの証拠では、なんら不徳行為と見做すことはできない。或は、単に鉱物学に興味をもち、研究のかたはら、標本の採集をしてゐたのかも知れぬ。宣教師のなかにはさういふ篤学者がなかなか多いのであつて、寧ろ、それだけの記事を読んだものは、きつとそれに違ひないと判断するだらう。これを取扱つた記者は、誰かに聞いた話をそのまゝ伝へたのかも知れぬが、そこは、ちよつと頭を働かせてもらひたかつた。これでは記事にならないと云へばすむことである。出先の記者がうつかりしてゐたとすれば、本社にいくらも人がゐるだらう。目的が目的であるだけに、整然と情理をつくさなければ効果がないのである。ところが、現在のヂヤアナリズムには、これに類する傾向が非常に多い。
 日本人の特性として、思考力の凝結といふことが欧米人によつて挙げられてゐる。一つのことを考へるとそのほかのことはつい忘れてしまふ。つまり、頭脳活動の重点主義が常に行き過ぎるといふ意味である。これはお互に考へなくてはなるまい。屁理窟、こぢつけ、腹を見すかされるやうな強がりがそこから生
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