いことは、今こそ、ヂヤアナリズムが率先して、国民の健全な知性を眼覚めさせてほしいといふことである。さういふ能力が何処かで休止してゐる現状を早速研究してみる必要があらうと思ふ。

       三

 ヂヤアナリズムの以上のやうな傾向が、まつたく国民大衆の教養を反映し、これに迎合しなければ経営が成立たぬといふことであれば、私は、こゝで、現在の国民教育について、忌憚のない意見を述べねばならぬ。これも決して批判のための批判ではない。新しい政治体制に応ずる新しい国民教育が吟味されねばならず、私もまた聊か教育の仕事に携つてゐるものであるから、その責任に於ても亦、為政者及び教育界の識者に訴へたいことがある。
 普通、智育、徳育、体育と並べて、これを国民教育の三単位となすの習慣がある。そして、或は智育偏重の弊を云ひ、徳育の欠如を指摘すれば、いつぱしの口利ける政治家であり、教育家であるといふのが、今日までの大勢であつた。そこで前に挙げたやうな、新文相の声明は、一種の革新的な内容をもつかの如き印象を与へるのであるが、精神の諸機能の微妙な連繋は、学問と道徳とが無縁のものでないといふ結論を導き出し得るのであ
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