と魅力とは、国民にかゝる不安と心痛とを抱かせないところにもあると私は思ふ。
二
そこで、今度はヂヤアナリズムの問題であるが、ヂヤアナリズムが国民の輿論を代表する時代ではないとしても、少くとも、国民をしてその信頼すべき政府に信頼させるだけの力は現在の新聞雑誌にはある筈である。またさういふ意味では、消極的な言論統制などゝいふことゝは別に、国民を健全に指導する役割は、大新聞大雑誌の誇りにかけても、これを放棄してはならないのである。
私が近頃のヂヤアナリズムに慊らないのは、その言論が時局的な統制を受け、報道の範囲と種類が限定されてゐるといふやうなことでは決してないのである。紙面の低調は必ずしもこゝから来るのではなく、ヂヤアナリズムの機構のどこかに、個人としてヂヤアナリストがそれぞれもつてゐなければならぬ、またもつてゐる筈であるところの良識の鏡を曇らせるものが恐らく伏在してゐるからである。
さうでなければ、例へば、最近の某事件の如きを、一様にあゝいふ風に取扱ふ道理がないからである。ある新聞は、わざわざ、犯人が平生親日家を装つて自分の名を「古楠」などゝ称してゐた、と書きたてゝゐる。「古楠」といふ漢字を欧名にあてゝよろこんでゐるのが、なぜ親日家を装ふことになるのか、私にはさつぱり合点がいかぬ。かういふ世間の論法が正しくないことを発見するのは先づ第一にヂヤアナリストでなければならない。ところが事実は全く反対で、不合理、卑俗な物の考へ方を第一に今の新聞が煽つてゐるかたちである。
事変以来、一種の排外思想、殊に反英的空気が濃厚であるのは、政治的にも理由のあることに相違ないけれども、その調子の音頭取りは甚だ不手際である。国民の「悪感情」がたとへそこまで行つてゐるにもせよ、大新聞は大新聞らしく、日本人の力と技術とをもつて所謂敵性なるものに適当に対抗する姿勢を示さなければいけない。同じやうな例だが、支那に在住する民主主義国宣教師の行動について云々する場合でも、嘗てかういふ論法の悪態を読んで私は危く吹き出さうとした――それは、彼等の一人が布教を看板に人跡未踏の山野にわけ入り、ひそかに鉱脈を探して何者かの為を謀らうとしてゐた。その証拠にいろいろな鉱石を拾ひ集めて部屋に積んであつた。宗教の名にかくれて彼等の犯してゐる不徳行為はかくの如きものであるといふのである。なるほどさ
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