ういふ事実が偶然あつたかも知れぬ。しかし、この宣教師の肩を持たうとするものでなくても、それだけの証拠では、なんら不徳行為と見做すことはできない。或は、単に鉱物学に興味をもち、研究のかたはら、標本の採集をしてゐたのかも知れぬ。宣教師のなかにはさういふ篤学者がなかなか多いのであつて、寧ろ、それだけの記事を読んだものは、きつとそれに違ひないと判断するだらう。これを取扱つた記者は、誰かに聞いた話をそのまゝ伝へたのかも知れぬが、そこは、ちよつと頭を働かせてもらひたかつた。これでは記事にならないと云へばすむことである。出先の記者がうつかりしてゐたとすれば、本社にいくらも人がゐるだらう。目的が目的であるだけに、整然と情理をつくさなければ効果がないのである。ところが、現在のヂヤアナリズムには、これに類する傾向が非常に多い。
日本人の特性として、思考力の凝結といふことが欧米人によつて挙げられてゐる。一つのことを考へるとそのほかのことはつい忘れてしまふ。つまり、頭脳活動の重点主義が常に行き過ぎるといふ意味である。これはお互に考へなくてはなるまい。屁理窟、こぢつけ、腹を見すかされるやうな強がりがそこから生れる。美談でもない美談の強制もそこから来る。誰かゞ大臣になつたと云へば、新聞はきまつて、これを「出世した人物」としてしか取扱はないなども、やはり、それはそれとしてといふ「頭」の働かせ方が不足してゐる証拠であらう。さて、わがヂヤアナリストがすべてさうだと云ふわけではないことは、個人として、ちやんと立派な常識を備へ、犀利な批判の筆を取つてゐる人もなかなか多いのであつて、前にも云つたやうに、その罪は、たしかに現在のヂヤアナリズムの機構と、その運用のしかたのうちにあるので、これはひとつ是非とも首脳部にある人々の考慮を煩はしたいものである。
長期に亘る事変に処して、国民の士気はあくまでも鼓舞しなければならず、当面の敵を忘れさせてはむろんならず、時には、頑迷な重慶政府を毒づくことも結構であるが、どうかさういふ時にも、国民の品位と余裕とを十分に示してほしい。仮にも敵将の家庭生活を暴いて快とするやうな手は用ひてもらひたくない。国民の一部はかゝるニユースを歓迎するかも知れぬが、さういふ心理は苟くも国民の名に於てするヂヤアナリズム紙面の声とするに値しないものであることを、今後、各社で申合せてはどうかと思
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