社会的失敗者をもつて任じてしまふからである。いくぶんの諦めは、その感情を次第に押しこめてしまふであらう。しかしながら、生涯を通じて、事ある毎に、「学校」にからまる卑下の感情は、社会的成功といふ誘惑的な言葉と固く結んで離れる時はないのである。この不幸は、既に、早ければ十四歳、遅くも二十歳に於て、宿命的なものとなるのである。少数の犠牲ならまだしも国家としては忍ぶべきである。しかし、犠牲は国民の大多数なのである。訴ふるに由なきこの災禍は、現代日本の社会をどれだけ陰鬱なものにしてゐるか、これは想像にあまりある事実である。
罪は、教育制度の欠陥と、教育者の不見識にあることもちろんであるが、その上、国民教育の根本精神のなかに、人間の価値、生活の意義についての、やゝ時代錯誤的な観念がひそんでゐることを見逃すわけにはいかぬ。
一口に云へば、日本国民の資格において、あまりにも「肩書」が物を云ひすぎるのである。職業に貴賤なしと教へながら、職業以外に自己の生活の恃むべき拠りどころがないから、自然、職業的習癖によつて人物の品質が決定されてしまふのである。
国民の国家と社会への奉仕は、その全人格によつてなされなければならぬ。決して、その生業を通じてのみではないのである。このわかりきつた事実が、教育の面で如何に曖昧にされてゐるか、自然その結果は国家に有用だとか社会に貢献するとかいふ常套語が、何を意味するのか常識ではわからなくしてしまつてゐる。国家の恩賞が官吏に厚く、民間に薄いといふやうな政治的封建性もさることながら、一般民衆の間で、如何にある種の地味な努力、献身的な事業が軽視されてゐるかを見ればわかる。殊に、「その人」の存在そのものが世の中の光明であり、幸ひであるといふやうな人格的魅力に対して、わが国民は実に鈍感になつてゐることを私は非常に悲しむ。
国民道徳の教へは、表面の「行為」を云々しすぎて、深く人間心理の機微を説いてゐないからである。
こゝまで書いて来た時、たまたま、「文政改革の方向」について橋田文相と三木清氏の対談なるものが読売紙上に発表されたので、今朝(八月二日)これを熟読した。
文相の言によれば、所謂「科学振興」の目標は、自然科学のみにあるのでなく、文化科学をも含むものであり、科学教育の根本は、「科学する心」を養ふにあるとのことである。まことに妥当な意見であるのみならず
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