いことは、今こそ、ヂヤアナリズムが率先して、国民の健全な知性を眼覚めさせてほしいといふことである。さういふ能力が何処かで休止してゐる現状を早速研究してみる必要があらうと思ふ。

       三

 ヂヤアナリズムの以上のやうな傾向が、まつたく国民大衆の教養を反映し、これに迎合しなければ経営が成立たぬといふことであれば、私は、こゝで、現在の国民教育について、忌憚のない意見を述べねばならぬ。これも決して批判のための批判ではない。新しい政治体制に応ずる新しい国民教育が吟味されねばならず、私もまた聊か教育の仕事に携つてゐるものであるから、その責任に於ても亦、為政者及び教育界の識者に訴へたいことがある。
 普通、智育、徳育、体育と並べて、これを国民教育の三単位となすの習慣がある。そして、或は智育偏重の弊を云ひ、徳育の欠如を指摘すれば、いつぱしの口利ける政治家であり、教育家であるといふのが、今日までの大勢であつた。そこで前に挙げたやうな、新文相の声明は、一種の革新的な内容をもつかの如き印象を与へるのであるが、精神の諸機能の微妙な連繋は、学問と道徳とが無縁のものでないといふ結論を導き出し得るのである。例へば、勇気にしろ、誠実にしろ、質素にしろ、謙譲にしろ、物事の生命と真理に徹する行為のうちに於て、はじめてかち得られるものである。
 私は、国民の一人一人が、偉大な理想を抱いて生涯をこれに賭けることを少しも危いことだとは思はない。危いのは寧ろ、人間として、国民として、何を「偉大な理想」といふか、それを誤つて教へ込むことだと思ふ。
 大臣大将を夢みる少年は近来少くなつたかも知れぬが、小学を終へて、順調に中等学校へ進み得ぬ多数の少年は、人生の第一歩を既に踏み外したと思ひ込んでゐる。中等学校から上級の専門学校、又は大学に進むことは、単なる知識欲からではなくて、立身出世の道がほかにないと考へられてゐるからである。あらゆる青年は、たゞ将来就職に「有利な」学校を目がけて殺到し、目的を達しなければ、当座は半ば自暴自棄となる。その時はもはや、向学心は停止したも同然である。私立大学のあるものは、かゝる種類の学生を集めて、ひたすら、その歓心を買はうと努めてゐるのである。
 優勝劣敗は世の常だから止むを得ぬと云ふのか? これが国家にとつて由々しいことだといふのは、かくして、国民の大部は、自ら、いはれなく
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