、たつた今お出かけになりましたんです。
卯一郎 (手を伸ばし唐紙《からかみ》を開けてみて、別段、驚きもせず)早く飯をつけろ。御給仕をする時は、坐つたまゝするもんだ。さういふ礼儀は覚えとくといゝ。(茶碗に箸をつけると同時に)いかん、やつぱりいかん……(茶碗と箸を下へ置く)下げてくれ。あとにする。(横になる)いざつていふ時は医者を呼べ。津幡を呼べ。大分苦しい。いや、まだまだ……。医者に電話をかける時は、かう云ふんだぞ――「先生にちよつと御意見を伺ひたい」つて……。なに、そいつはおれが云はう。たゞ「至急、お出でを願ふ」と、たゞ、それだけでいゝ。要するに、気休めだ。大丈夫なら大丈夫と、それだけ云つて貰へばいゝんだ。あとは、こつちのもんさ。うん、だんだん苦しくなつて来た。慌《あわ》てることはない。今、電話はあいてるか。誰にも使はすな。奥さんは何処へ行つた。いや、探すには及ばん。こいつは……聊か……。さつきよりもひどいぞ……比較にならん。待て待て。過ぎ去ればよし……さうでなければ、それでもよし……。く……く……苦しい……。まだ、まだ……。おい、何処へ行くんだ。ぢつとして……あゝ、もう、我慢できん……。そら、行け! 早く……。電話だ! 医者を呼べ! 津幡医学士だ。(女中、あたふたと去る)ゐるかな、大将……。芝居なら二時間待てばいゝ。間に合はなかつたらそれまでだ。医者の罪ではない。おれの罪でも、猶更ない。
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電話をかける声。――「は? はい、先生はいらつしやいませんか。はあ、それでは……ちよつとお待ち下さい」
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卯一郎 よし、よし、ゐなければ、ほかの医者だ。誰でもいゝ。近いのを呼べ。手当の必要はない。気安めだ。顔を見ればいゝ。
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女中が上つて来る。
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卯一郎 わかつた。角《かど》の医者を呼べ。松原だ、誰かを走らせろ。津幡の方は、行先がわかつてたら、呼び返して貰へ。あいつでなけれや、話はわからん。(女中、去る)
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電話の声。――「もし、もし、先生のお出まし先はおわかりでございませうか。……では、恐れ入りますが、すぐに、こちらへお寄り下さいますやうに……はい、榊でございます……さきほどの……はい、どうぞ……」
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卯一郎 (呼鈴を押す)遅かつた。いや、遅くない。誰でもいゝ。側にゐてくれ。
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小僧の三木が上つて来る。
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卯一郎 あ、お前か、三木か、丁度いゝ。そこへ坐れ。配達は、もうすんだか。御苦労だつた。今に給金を上げてやるぞ。明日は、何処々々だ? 返事はしなくつていゝ。何をきよろきよろ見てるんだ。もつと落ちついて、おれの云ふことを聴け。いゝか、来年は工場をうんと拡張する。お前たちにも部屋をあてがつてやる。広いことはいらん。三人で四畳半なら沢山だ。女工の数も三倍に殖《ふ》やす。気の利いた事務員を一人置く。女でも差支へない。手紙が書けさへしたら……。さうだ、中古のオートバイを一台、無論、配達用だ。お前、乗り方を稽古しろ。おや、足がしびれて来た。医者はまだか。起たなくつていゝ。足をつねつてみてくれ。こゝだよ、足は……。(小僧は毛布の下に手を差し込む)さうだ、そこを、ぎゆつと、……かまはん、かまはん、遠慮せんでいゝ。それで力いつぱいか。もうちつと痛くはできんか。
三木 こゝぢやいけませんか。
卯一郎 痛い。なにをする。
三木 (驚いて手を引込める)
卯一郎 (力なく)はゝゝゝ、痛くつてなによりだ。おれはな、お前ぐらゐの年に、何処で何をしてたと思ふ?
三木 (首をかしげ、知りませんといふ顔をする)
卯一郎 知らんだらう。人の畑から野菜を盗んぢや、町へ売りに行つたもんだ。昔だぞ、それや。今だつたらそんなことはせん。町には、優しいお神さんが二人ゐた。一人は物持ちのお神さんで、野菜を残らず買つた上に、これはお駄賃だと云つて、二銭玉をくれたもんだ。もう一人は、貧乏人のお神さんで、大根を一本、たゞおいてけと云つて、その代り、熱い甘酒《あまざけ》を出してくれた。おれは今でも、その二人の顔を、はつきり覚えてる。おれのお袋は、おれが生れると間もなく、何処かへ姿をかくしたといふんだが、この二人のお神さんは、云はゞ、おれのお袋だ。お前は、おつ母《か》さんの乳を飲んだことを覚えてるか。
小僧 (笑ひながら)へえ。
卯一郎 赤ん坊みたいな声を出すな。(間)眠くなつた。気が遠くなるのかな。しつかりしろ。あ、医者が来た。お前はゐなくつていゝ。
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なるほど、医師松原延蔵が女中に案内されてはひつて来る。
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卯一郎 いつぞやは……。
松原 やはり、いけませんか。
卯一郎 今度は、心臓らしいです。時々|発作《ほつさ》が来て、ひどく苦しいのですが……。
松原 (脈をみながら)何時《いつ》からですか。
卯一郎 今朝から急に、息がつまるやうで……。
松原 はあ……。(聴診器を取り出し、胸にあてる)
卯一郎 大体のところは自分にもわかるんですが……。
松原 ちよつと……。
卯一郎 一応、先生の御見立を伺つた上で……。
松原 黙つて……。
卯一郎 別に、手当の……。(急いで口を噤《つぐ》む)
松原 さうですな。どなたか。お家の方は……。
卯一郎 わたくし、うちのもので……。
松原 いや、奥さんか、どなたか……。
卯一郎 先生、家内《かない》には、なんにもおつしやらないで下さい。危《あぶな》いですか。
松原 なに、決して、そんな御心配はありません。たゞ、手当について……。
卯一郎 手当と申しますと……。
松原 いろいろありますが、先づ、差当り、心臓を冷やしていたゞきませう。それから、足の方に湯タンポを入れて……。
卯一郎 なるほど、湯タンポぐらゐなら、かまひますまい……。
松原 注射はおいやですか。一本、念のためにやつときたいですな。
卯一郎 念のため……。はあ。念のためと……。まあ、そいつは、見合せていたゞきませう。どうも、わたしのからだに、注射は適せんやうですから……。
松原 そんなことありませんよ。普通の強心剤ですから……。
卯一郎 まあ、手当の方は、ゆつくりで結構です。心配はないと何へば、あとは、自分でどうにかやれるでせう。
松原 しかし……。
卯一郎 しかし、いよいよ、助からんものなら、これや、止むを得ませんが……。
松原 助かるとか助からんとかは、手当をしてから後の問題でせう。
卯一郎 おほきに……。手当をしたために助からなかつたといふ例もありますしな。
松原 そんなことを云つたら、医者の必要はなくなります。
卯一郎 お説は、大体わかりました。
松原 くどいやうですが、医者として……。
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この時、また、医師津幡直が、案内なしにはひつて来る。医師二人は、顔を見合せて驚く。
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津幡 いよう。
松原 いよう、失敬……君が診《み》てたのか。
津幡 さういふわけでもないんだが……。
卯一郎 やあ、津幡先生……どうも、恐れ入りました。先ほど、電話をおかけしましたら……。
津幡 えゝ、ちよつと、往診に出かけてたもんですから。……ぢや、僕は、引き上げませう。
松原 いや、君にお委《まか》せしよう。
卯一郎 まあ、まあ、さうおつしやらずに、ひとつ、御相談の上、よろしく……。
松原 僕はもう済んだんだ。まあ、いゝから、プルスをみてみ給へ。
津幡 (卯一郎の脈を取り)ふむ……。こいつは弱つたな。(胸に聴診器をあて)ふむ……これや、いかん……。(急いで鞄をあける)
卯一郎 (恐る恐る、しかも、強ひて微笑を浮べながら)いけませんか。
津幡 手遅れです。お気の毒ですが、もう見込はありません。
卯一郎 (なほも、否定的な微笑を続け)手遅れ? 見込がない……? (甚だ不自然な笑ひ声をたてる)戯談《じやうだん》でなく、先生……。
津幡 よくもつて、明日の朝まででせう。ことによると今夜……。
卯一郎 今夜? はゝあ、誰がですか。他所《よそ》の患者ですか。さうなると、もう口も利けますまい。人の顔も見分けられんでせう。
津幡 無駄でも、とにかく、手当だけはしておきませう。(鞄から注射器を取り出す)
卯一郎 手当?
津幡 奥さんはお留守ですか。
卯一郎 いや、奥さんはゐなくつてよろしい。手当の必要はない。薬は一切禁物です。
津幡 しかし、一応は……。(毛布をまくる)
卯一郎 一応も二応もない。注射は大嫌ひです。(拒む)
津幡 どうしてもいやですか。強心剤です。
卯一郎 断然、いやです。
津幡 医者の責任だけ尽さして下さい。
卯一郎 患者の自由意志にお任せなさい。
津幡 万一の奇蹟といふこともあります。
卯一郎 奇蹟なら、あんたにお願ひはせん。第一、医者の口から、奇蹟とは何事です。あやふやな診断は御免蒙りませう。
津幡 あやふやかどうか、明日の朝までにはわかります。
卯一郎 おほきに。明日の朝、もう一度お目にかゝるとしませう。
津幡 結構です。死亡証書を作りに参ります。
卯一郎 姓名と月日のところは、余白にしといて下さい。また、何時《いつ》か何処かで役に立つでせう。やれ、やれ、これが現代の医学か。人間の命を、さう軽々《かる/″\》しく取扱つて貰ひますまい。君達は、何を知つてるといふんだ。本に書いてあることは、生きものに通用しないんだ。いゝか、わかつたか。この通り、おれは生きてるんだぞ。一人の医者は、大丈夫だと云ひ、もう一人の医者は、駄目だといふ。どつちも、気休めだ。そんなことが、君たちにわかるか。その証拠に、両方とも、おんなじ注射だ。命取りの注射だ。帰つてくれ、帰つてくれ。金は後から払ふ。
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医師二人は、顔を見合せて、何か合図をして、そのまゝ、出て行かうとする。
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卯一郎 ちよつと、先生……津幡先生……その注射を、うんとやつてみたらどうです。効《き》くまでやつてみたら……。
津幡 あゝ、ぢや、やつてみますか。
卯一郎 奇蹟でなく、希望はないですか。
津幡 さあ、希望は、まづ、ありません。あると云つては、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]になります。
卯一郎 ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]になる? ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]でもいゝといふことになれば……?
津幡 それは、御勝手……。さあ、どうしますか。次の患者を待たしてあるんですが……。
卯一郎 やめときませう。医者の尊厳のために、無駄な手当はよしませう。但し、わたしの命が明日の朝までだなんて一切、誰にも云はないで下さい。あゝ、実に、いゝ気分だ。さよなら、皆さん……。
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医者二人、去る。
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卯一郎 (起ち上らうとするが、すぐに倒れる。呼鈴を押さうとしても、手が届かない。そして、その手が、ぐつたりと下に垂れる)おれの……足は……何処へ行つた……。お……お……奥さん……奥さん……。い……い……息が……。
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長い沈黙。
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卯一郎 あゝ、夢をみてゐた……。おや、手……手……手がないぞ、手が……。
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