い話があるんですよ。どうも、近頃は、医者の方も不景気でしてね。患者の数が、どこでも、めつきり減つてゐる。無論同業者の数が殖えたといふこともありますが、それどころの割合ぢやないんです。誰に訊《き》いてみても、これぢや医者は立ち行かんといふ。有名な病院なんかでも、以前ほど経営が楽ぢやないといふ話です。してみると、医者にかゝる人間の数が減つたといふ理窟です。よござんすか。これは至極当り前なことで、不景気だから、成るべくなら医者に払ふ金を倹約しようといふことになる。ところで、それはいゝが、不景気でも、病気に罹《かゝ》らないといふわけはない。医者にかゝるところを、売薬ですますといふ手合が多くなつたんだらう。すると、薬屋がうまい汁を吸つてゐるわけに違ひない。かう思つて、私、実は、調べてみました。豈計らんや、薬屋諸君、みんなこぼしてゐます。近頃は不景気でといふんです。医者にもかゝらず、薬も飲まずでは、恐らく、直る病気も直らずに、死んでしまふ人間が多いに違ひない。儲かるのは葬儀屋だなと思ひました。これも念のため当つてみますと、なかなかどうして、此処にも不景気風が吹いてゐて、なるほど上等の棺桶を註文する代りに、中等、並製が殖えるといふならわかるが、全体の棺桶数がぐつと減《へ》つたといふんです。まさか、手製の棺桶でお葬《ともら》ひもできますまい。どうも変だと思つて、早速、区役所で、最近二三年の死亡率を調べてみました。たしかに、減《へ》つてゐる。不景気と死亡率の関係をいろいろ考へてみると、どうもたゞ一つの理由しかないやうに思ふ。なるほど、景気がいゝと、暴飲暴食その他不摂生な行為から健康を害するやうになるといふのは一つの理窟ですが、不景気のため、粗衣粗食で栄養状態が低下し、過労心痛のため死を早めるといふ事実と比較すればどうでせう。先づ、これは相殺するものとして、真の理由は、その外にある。私の判断に従へば、不景気で死亡率が少くなるのは、無暗に薬を飲まず、殊に、医者にかゝらないからだといふ結論になるんです。どうです、面白い現象でせう。
卯一郎  面白いですな、そいつは……。殊に、お医者さんのあなたから伺ふのは面白い。(起き上る。呼鈴を押す)わたしも、実は、お医者といふものに、予々《かね/″\》、疑ひをもつてゐた。何処まで信用ができるかといふことを考へてゐた。それで、すつかりわかりました。いや、面白い。あなたは愉快な方だ。(女中が上つて来る)あ、おい、何かないか。紅茶でも入れて来なさい。その菓子折をあけてこつちへ出してくれ。
津幡  (起ち上り)ぢや、まあ、さういふわけですから、これで失礼しませう。
卯一郎  今、お茶を入れます。
津幡  いや、少し急ぎますから、また何れ……。

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津幡、去る。卯一郎、寝台より降り、送つて出ながら、
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卯一郎  さうですか……それでは、お構ひもしないで……。あ、誰かゐるか、先生をお送りして……。では、御免……。(部屋に帰つて来ると、急に、また胸が苦しくなつたらしく、寝台の上に駈け上り、ぢつと眼を据ゑて、不安と戦ふ)おい、奥さん、ちよつと来てくれ……苦しい。苦しい。あゝ、正直なところ、苦しい……。なあ、奥さん、側にゐてくれ。たゞ、側に……ゐるだけでいゝ……。(その間に、とま子は、また、微かな呻き声を立てはじめる。卯一郎の声が大きくなるにつれて、その呻き声も大きくなる)なんだ、それや。何処が苦しいんだ。そんな声を出したつて、だあれもなんとも思やしないぞ。自分が草臥《くたび》れるだけだ。あゝ、この部屋には空気があるのか。障子を開けてくれ。風をいれろ。寒いぐらゐ平気の平左だ。呼吸《いき》ができん。勘違ひをするな。誰も死にさうだと云つてやしない。まだまだ命は大丈夫だ。医者なんか呼ぶ必要はない。うつかり手当《てあて》なんかされちや、それこそ迷惑だ。苦しいのがなほつても、殺されたらなんにもならん。

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障子の外で、「はひつてもよろしいですか」「只今帰りました」「わたしです、乙竹です」といふ声。
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卯一郎  なに? 乙竹? 今帰つたのか。はひつていゝとも……。ちやうど待つてたところだ。早く返事をきかしてくれ。首尾はどうだ。

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外交員乙竹外雄、口髭を生やした男、慇懃に進み出る。
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乙竹  早速ですが、宮内省の方は、まだはつきりしたことはわかりませんが、相当脈はありさうです。もうひと押しといふところです。それから、都築家政割烹学院の方は、先生方の評判が大体よろしいやうで、これは、纏つた註文が、来週あたり取れさうに思ひます。たゞ、ある先生がかういふ意見をもつておいででした。あの掌のところにボツボツをつけたのは、滑《すべ》らないためにいゝ思ひつきだが、どうも、疣かなんかのやうで、見た目にも、感じがよくないから、あれは、横筋のやうなものにしてはどうかとおつしやるんです。
卯一郎  それやもう、試験済みだ。横筋にすると、なるほど縞馬のやうで見た目は綺麗だが、どうももちが悪《わる》い。凹んだ線に沿《そ》つて割目ができるんだ。そんな素人《しろうと》意見は、いちいち取上げる必要はない。ぢや、君、宮内省の方を、ひとつ、せいぜい、せついてみてくれ給へ。数は少くつても、こいつは、肩書《かたがき》みたいなもんだからね。多少運動費を出してもいゝ。それから……ちよつと待つて……。苦しい。もつと離れててくれ給へ。さう側ではあはあ息をされちや、どつちが呼吸《いき》をしてるんだかわからなくなる。
乙竹  お加減がよほど悪《わる》いとみえますね。
卯一郎  さう見えるかい。なるほど、こいつばかりは隠すわけに行かん。病気そのものはたいしたことはないんだが、発作《ほつさ》が猛烈でね。なに、心配はないのさ。話はそれだけかい。あ、さうだ。君の手当のことだが、どうも成績が思はしくないから、この暮は、上げるのを見合せよう。歩合《ぶあひ》の方で、しつかり稼ぎ給へ。これからまだどつかへ廻るんだらう。日が短いぜ。
乙竹  (何か云はうとする)
卯一郎  わかつた。もう一年辛抱し給へ。

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乙竹、会釈して去る。
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卯一郎  奥さん、まだ苦しいかい。おれは、もう直つた。津幡医学士の云ふ通りだ。過ぎ去るのを待つなんて、普通の医者にや云へないことだ。現代の医学は、迷信と絶縁しなけれやいかん。自然に直るものを、医者が直したのだと思はせる時代があつた。子供の出世を、親が自慢した時代だ。おい、奥さん、何時《いつ》までも拗《す》ねてるもんぢやない。おれはこの通り、機嫌よく話しかけてるんぢやないか。ほんとに頭痛がするなら、ちよつと活動の看板を見て来てごらん。足の先が冷《つめ》たけれや、相談でおれが温めてやつてもいい。さうやつて黙つてるが、お前が今何を考へてるか、おれにはほゞ見当がついてる。病気ばかりする亭主つていふものは、あつてもなくつてもおんなじわけだと思つてるんだらう。
とま子  おんなじなもんですか。ない方がましだと思つてるわ。
卯一郎  さうか。二万六千円の貯金は別としてね。だが、おれが死んでも、そいつはお前の手にはひらないよ。子供がないからだ。そいつは知らなかつたね。どうだ。法律つていふもんはうまく出来てる。子供を生まない細君は、亭主の財産を相続する権利がないんだよ。遺言でも書いとかない限り、おれの身代はそのまゝ、残らず唯一人の従弟《いとこ》今田茂七の手にころがり込むんだ。お前は絶対に子供を生まんといふ、そんな厄介なものは欲しくないといふ。おれの切《せつ》なる願ひにも拘らず、四年間、頑張り通した。今だから教へてやるが、おれの夫《をつと》としての心遣ひは、さういふところまで見越してゐたんだ。さあ、なんとか返事をしろ。
とま子  あたしを見違へないで頂戴。二万や三万のお金がどうだつていふの。そんなもの、欲しい人にやればいゝわ。あたしはまだ若いのよ。
卯一郎  さあ、二十八で若いかどうか、いろいろ意見もあるだらう。仮に若いとして、それがどうなんだ。四十六のおれと釣合がとれんとでも云ふのか。今になつて、そんなことを云ふなよ。(寝台から降り部屋の中を歩く)おれだけが二つづつ年を取つてくわけぢやない。今まで、一緒に外を歩いて、笑ふやつが一人でもゐたか。
とま子  父娘《おやこ》だと思ふから笑はないのよ。
卯一郎  さうかも知れん。さう思ふやつにはさう思はせておけ。事実は雄弁だ。この通り、おれは、一個の夫として、妻たるお前の利害を論じてゐるんだ。悪いこと云はないから、もう起きろ。起きて晩飯の支度でもしろ。どうも、足がふらふらする。今朝から何も腹へいれてないせゐだ。あゝ、物を云ふと、眼が眩《くら》むぜ。(寝台に腰をおろす)人間のからだといふのは微妙なもんだ。精がない時は、寝転ぶやうに出来てる。(また寝台にもぐり込む)これがあべこべだつたら不都合に違ひない。
とま子  用がない時は静かにしてて頂戴。お夕飯は六時ときまつてるでせう。
卯一郎  きめたのはおれだ。ぢや、昼食を食はせろ。
とま子  お昼はとつくに済みましたよ。あなたが勝手にあがらなかつたんぢやありませんか。
卯一郎  だから、今食ふと云つてる。
とま子  時間以外の食事は厳禁といふきまりぢやなかつたんですか。
卯一郎  平生はさうだ。だらしがなくなるからさ。御飯ていふもんは、間で食べる方が余計食べられるなんて、馬鹿な量見をもつてる奴がゐるからだ。
とま子  (むくむくと起き上り、そつと箪笥をあけて着物を出しはじめる)
卯一郎  熱もないのに、顔がほてるのは、どういふわけだらう。奥さん、家庭医学辞典はどこへ置いた。
とま子  (着物を着ながら)そこの枕もとにあるでせう。
卯一郎  (枕下から辞典を取上げて頁を繰る)心臓……心臓と……心臓麻痺……心臓弁……弁……はどこだ……。ふむ、これは違ふ……。ぢや、神経で引いてみよう……神……神……。
とま子  (その間に着物を着終り、化粧を手早く直す)
卯一郎  神経性……なんだ……はゝあ……。いや、これでもない……。
とま子  (化粧をすますと、ハンドバッグを取上げ、ショールを肩にひつかけて、部屋を出る)
卯一郎  充血のところかな。充血……充……。ふん、なるほど……。顔面紅潮を呈し……か。時に……鼻孔内の……(ハンケチで鼻をかんでみる)……出血を伴はないからして、先づ、これも疑問だ。おい、奥さん、お前のお父《と》つつあんは、たしか脳溢血で死んだんだね。どんな容態だつたね、その少し前は……覚えちやゐまいな。よし。よし。好い加減なことを云はれても、却つて困る。(頭を前後左右に動かし)首の附け根が少し痛いのは、別段、関係はないか……。いやに、お静かですな。眠つた真似《まね》をしてますね。

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この時、下から女中が膳を運んで来る。
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女中  お粥もございますが、普通の御飯になさいますか。
卯一郎  おや、何時《いつ》の間《ま》にか云ひつけたな。おい、奥さん、もう普通の御飯でもよからうね。第一、お菜がコンニャクぢやないか。さあ、そこへ置いた。(起き上る)なんかもうちつと、身になりさうなもんはないのか。
女中  奥さまがこれでいゝつておつしやいましたもんですから……。
卯一郎  奥さん、ほんとかい。ちよつとこゝへ来てごらん。なんか忘れてやしないかい。それとも、これから、卵焼でも作るのか。ねえ、奥さん……。
女中  (笑ひながら)奥さまは、さきほどお出かけになりました。
卯一郎  お出かけ? 馬鹿云つちやいかん、そこに寝てるよ。
女中  あら、ほんとに
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