んだ。自動車で送つてやつたりなんかしやすまいな。おい、早く医者を……医者を呼べ……。
とま子 誰を呼びませう。この前の湯本さんぢやいけないんですの。
卯一郎 あんなの、いかん。あれを呼べ、あれを……四度目に呼んだ、背の高いの……そら、夜遅く来たのがゐるぢやないか。内科専門で……お前が電話をかけて……えらく横柄だなんて云つてた……。
とま子 津幡さんでせう。
卯一郎 それだよ。津幡、津幡、津幡医学士を呼べ。
とま子 あんなんでいゝんですか。頼りなささうなお医者さんぢやないの。
卯一郎 いや、お世辞のいゝ奴はいくらでもゐる。病気はお世辞ぢやなほらない。すぐ来て下さいつて……心臓だと云はんといかんよ。苦しい。非常に苦しい。
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とま子去る。やがて、電話をかける声が聞える。
「もし/\津幡先生のお宅でいらつしやいますか。はあ、こちらは、先日御厄介になりました榊でございますが……はあ、榊卯一郎でございます……はあ、さやうでございます。先生、只今、いらつしやいますでせうか……あゝ、それでは……実は、もう一度、御診察を願ひたいんでございますが……はあ、少し、急ぎますんですけれど……いえ、それほどでもございません……さきほどまで元気で……いえ、そんなこともないらしうございます……は? あゝ、それでは、ひとつ、早速……お迎ひは……さうしていたゞいて結構でございます……では、どうか……」
とま子が上つて来る。
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卯一郎 どうしたんだ。
とま子 電話をかけてる最中に、往診から帰つてらしつたの。丁度よかつたわ。
卯一郎 あんな頼み方ぢや、向うはゆつくり構《かま》へてるかも知れんぞ。それほどでもございませんと云つてたのはなんだい。
とま子 苦しがるかつて訊《き》くからだわ。
卯一郎 それほどでもないつてことが、お前にわかるかい。好い加減なことを云ふもんぢやない。もう一度掛けて来い。大変苦しがつてるつて……。
とま子 あれくらゐに云つとけばよくつてよ。
卯一郎 よくないよ。その後で、そんなこともないらしうございますつて云つたね。なんだ、あれや……。
とま子 脈が途切れるやうなことはないかつて……看護婦よ、そんなこと訊《き》くのは……。
卯一郎 訊くのが当然だ。そんなこともないらしいどころか、この通り、ドキ……ドキドキ……ドキ……立派に途切れてる。早くさう云つて来い。
とま子 いゝわよ、もう先生、お出掛けになつた頃だわ。そんなに心配なさらなくつて大丈夫よ。この前だつて、胃が破れさうだなんて、実際どうもなかつたぢやないの。
卯一郎 胃と心臓は違ふ。おい、もう少し、なんとか、病人のそばにゐるらしくしろよ。ぢつとそんなとこに立つてないで、椅子をこつちへ引寄せるなりなんなり、脈を取るなんて気の利《き》いた真似《まね》が出来なけれや、せめて、はらはらした顔附でもしろ。額に手を当ててみるぐらゐのことは、他人だつてして差支へないことだ。おれがお前なら、医者の来る前に、酸素吸入の用意をするぜ。
とま子 戯談《じやうだん》だわ。そんなに、はつきり物が云へるぢやないの。顔色だつてどうもないし……。
卯一郎 顔色? 顔色が好いのは、どうにもならんさ。十五年間南洋の日にさらしたお蔭だ。はつきり物を云ふから可笑《をか》しいと云ふのか。はつきり云はなけれや、お前にはわかるまい。二十八にもなつて、男の眼附が読めないぢやないか。
とま子 またはじまつた。えゝ、えゝ、あたしは馬鹿で、間抜けで、気が利かなくつて、ぼんやりで、低脳よ。
卯一郎 どれもみんなおんなじこつた。
とま子 さうよ、おんなじよ、あたしだつて、頭痛がするわ。寒気《さむけ》がするわ。足の先が冷《つめ》たいわ。
卯一郎 ちえツ、またはじめやがつた。
とま子 なにをはじめたの。病気はあんたの専売特許だと思つてんの?(ぷいと部屋から出たと思ふと、隣室へ現はれて押入から夜具を取り出し、手早くそれを敷いて、今度は羽織を脱ぎ帯を解き、長襦袢のまゝ横になつてしまふ)
卯一郎 (調子を和らげ)おい、奥さん、おれが悪《わる》かつたよ。後生《ごしやう》だから、その手は勘弁してくれ。不自由この上なしだ。おれが病気になると、お前がいやな顔をすると云ふのは、そこを云ふのだ。お前は、おれが病気になるたびに、自分も加減が悪《わる》いと称して寝てしまふ。これで幾度だ。平生は至つて健《すこ》やかなお前が、一日や二日の看護に、疲れるといふわけがない。それも徹夜をして氷をわつたとでもいふなら格別、看護と名のつく看護を、一体全体|何時《いつ》したことがある。これは決して、お前の愛情に疑ひをもつといふ意味ぢやない。その証拠に、おれがどうもない時は、世にも稀れなる女房振りをみせてくれるぢやないか。さつきも云ひかけたことだが、四十幾つかになつて、はじめて貰つた若い細君を、さうはやばやと未亡人にできるかい。おれが病気を怖《こは》がる理由は、たゞそれだけだ。おれは、よく云ふやうに、二十《はたち》の年に国を飛び出して、南洋の島から島を渡り歩いた。真珠採りになつて海の底へもぐつたり、ゴム林の中で土人と一緒に寝起きしたりしてゐた頃は、病気なんて実際、屁とも思はなかつた。それが、日本へ帰つて、偶然思ひついた仕事が、案外うまく行くし、こはごは持つた女房が、これまた大当りと来たもんだから、おれは、やたらに生命《いのち》が惜しくなつた。聴いてるかい、奥さん。そこで、お前が、おれを大事にし序《ついで》に、病気の時は、病人らしく扱つてくれさへしたら、却つて、おれは、なに糞といふ気になるんだ。痛いでせうと云はれゝば、多少痛いところも我慢をする。苦しくはないかと訊《き》かれゝば苦しいなんてことも、三度云ふところを一度にするんだ。寝てゐろと云はれゝば、つい起きてみたくもなるし、医者を呼ぼうと云へば、いや大丈夫だと云ひたくなる。そこのところをひとつ考へてくれ。今だつて、お前の出方ひとつで、おれは註文を取りに出かける支度をしてみせるぜ。どうせお前が止《と》めると思へばだ。来たぞ、医者が来たらしい。どれ、あゝ、苦しい、さつきよりまだ苦しい。だんだん苦しくなる。
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女中が医師津幡直を案内してはひつて来る。
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津幡 どんな工合ですか。
卯一郎 心臓がどうも……変なんですが……。
津幡 胃の方は……?(脈を取る)
卯一郎 あ、あの方は、その後ずつとよろしいやうです。二三日前から、神経痛が起つて寝てゐたんですが、昨夜《ゆうべ》から急に心臓が……。
津幡 以前に、さういふことは一度もなかつたですね。
卯一郎 ありません。心臓だけはしつかりしてるつもりでした。
津幡 拝見しませう。(聴診器をあてる)
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隣室で、微かに呻き声が聞える。勿論、妻のとま子である。
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津幡 (診察を終り)なんでもありませんね。
卯一郎 さうでせうか。
津幡 だつて、心臓は誰の心臓でもこんなもんですよ。
卯一郎 誰の心臓でも? なるほど、今は当り前に打つてるやうですな。呼吸も楽《らく》になりました。どうも発作的に来るやうです。
津幡 さうでせう。しかし、それなら心配はありません。――と、まあ、医者なら云ふところですな。尤も、さう云つてゐて、今夜にも急変がないとは保証できませんがね。それはしかし、われわれの力で、予測はできませんからな。
卯一郎 何か薬のやうなものは……。
津幡 必要ないでせう。是非欲しいとおつしやれば、なんか差上げてみませう。
卯一郎 では、仮に、また発作《ほつさ》が来たやうな場合、どうしたらいゝでせう。
津幡 過ぎ去るのを待てばいゝでせう。
卯一郎 発作が起らないやうには出来ませんか。
津幡 原因を除くんですか? 原因なんかさう簡単にわかりませんよ。まあ、神経性のものなら、神経を鎮める方法もありますが、医者の顔を見て発作《ほつさ》が治まるくらゐのもんなら、却つていぢくらない方がいゝでせう。元来、病気なんてものは、医者の手で幾割なほせますか。仮に病源を適確に探りあてて、理論通りの処置をしたとして、その結果は、百パーセント有効とは云へませんからね。悲観的に見れば、治療と称する何等かの刺激が、逆《ぎやく》に患者の健康状態を悪化させる場合が十中の五まであると覚悟しなければなりません。
卯一郎 十中の五……それはまた意外なお話ですな。なるほど、医者によつては、技術の不足と云ひますか、ある病気を治療できないといふことはあるでせうが、医術そのものは、そんなに不完全なもんでせうか。
津幡 医術はどうか知りませんが、結局は、それを運用する人間――その人間といふものが、不完全に出来てゐるんだから、どうも仕方がありません。
卯一郎 つまり、なんですか、不熱心とか、不深切とか……。
津幡 それもあります。しかし、なにを不熱心、不深切といふんですか。呼びに行つて直ぐ来ない。これが不深切ですか。医者だつて疲れもしますし、遊びたくもある。そのうへ、商売の心得ぐらゐありますよ。わざわざ損になるやうなことはしやしません。実は、こなひだ、ある家から子供の容態が悪《わる》くなつたからすぐ来てくれと云つて来た。私は丁度、家内を連れて芝居に行つてたもんですから、電話がかゝつて来たあと、一幕だけ見て、駈けつけたわけです。子供は駄目でした。怒りましてね、親が……。二時間待つたといふんです。ところで、私に云はせると、二時間前に、もう、絶望状態であつたことは確かなんです。早く行つても間に合はなかつたわけです。手おくれは親の罪で、私の罪ではない。しかし、そこはデリケートなところで、もう一つ、こんな例があります。私が診《み》てゐた女の患者ですが、もう六十五といふ年です。赤痢の疑ひで、たうとう菌がでないうちに、衰弱してしまひましてね。もう見込がない。そこで、無駄と知りながら、最後の食塩注射をして、身寄のものを呼ぶなら呼べと云つて帰りましたが、それがどうです。翌日からめきめきよくなつて、今でもぴんぴんしてます。
卯一郎 さういふのは、どういふんでせう。
津幡 寿命といふんでせう。その二つの実例から、私は、医者といふ商売がいやになりました。どんな病人でも、自分が責任を持つ以上、昼夜附きつきりでなければ、完全な治療を尽すといふわけに行かないんですからな。いつ時でも人|委《まか》せには出来ない。肺病なんかだと、二年間は、その患者と寝起きを倶にする必要がある――といふのが私の意見です。そんなことが出来ますか。
卯一郎 出来ませんな。
津幡 出来ないなら、おんなじことです。医者といふのは名だけです。病人の気やすめです。そのことで、面白い話があるんです。
卯一郎 ちよつと、失礼ですが、隣りの部屋に家内もやすんでゐるんですが、さつきから頭痛がするとか寒気《さむけ》がするとか云つてるやうです。ひとつ、お序《ついで》にどうか……。
津幡 あ、こちらですか。(隣室にはひり、とま子の寝てゐる傍に坐る)気分が悪《わる》いですか。
とま子 はあ、とても……。
津幡 (脈をみながら)嘔気《はきけ》なんかは……?
とま子 はあ、少し……。
津幡 ありますね。頭痛は、この辺ですか。
とま子 えゝ、そこと、この辺もずつと……。
津幡 ほかに変りはありませんね、舌を出してみて下さい。はい、結構。(聴診器をあてる)大きく呼吸《いき》をして……。よろしい。さうですね、たしかに何処か悪いやうです。しかし、私にも何処といふことははつきり云へません。ことによると、このまゝ直つてしまふかも知れません。お腹《なか》が空《す》いたら、何でも上つてみてごらんなさい。御主人も同様です。(卯一郎の方へ帰つて来て)さう、面白
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