談《じやうだん》でなく、先生……。
津幡  よくもつて、明日の朝まででせう。ことによると今夜……。
卯一郎  今夜? はゝあ、誰がですか。他所《よそ》の患者ですか。さうなると、もう口も利けますまい。人の顔も見分けられんでせう。
津幡  無駄でも、とにかく、手当だけはしておきませう。(鞄から注射器を取り出す)
卯一郎  手当?
津幡  奥さんはお留守ですか。
卯一郎  いや、奥さんはゐなくつてよろしい。手当の必要はない。薬は一切禁物です。
津幡  しかし、一応は……。(毛布をまくる)
卯一郎  一応も二応もない。注射は大嫌ひです。(拒む)
津幡  どうしてもいやですか。強心剤です。
卯一郎  断然、いやです。
津幡  医者の責任だけ尽さして下さい。
卯一郎  患者の自由意志にお任せなさい。
津幡  万一の奇蹟といふこともあります。
卯一郎  奇蹟なら、あんたにお願ひはせん。第一、医者の口から、奇蹟とは何事です。あやふやな診断は御免蒙りませう。
津幡  あやふやかどうか、明日の朝までにはわかります。
卯一郎  おほきに。明日の朝、もう一度お目にかゝるとしませう。
津幡  結構です。死亡証書
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