卯一郎  平生はさうだ。だらしがなくなるからさ。御飯ていふもんは、間で食べる方が余計食べられるなんて、馬鹿な量見をもつてる奴がゐるからだ。
とま子  (むくむくと起き上り、そつと箪笥をあけて着物を出しはじめる)
卯一郎  熱もないのに、顔がほてるのは、どういふわけだらう。奥さん、家庭医学辞典はどこへ置いた。
とま子  (着物を着ながら)そこの枕もとにあるでせう。
卯一郎  (枕下から辞典を取上げて頁を繰る)心臓……心臓と……心臓麻痺……心臓弁……弁……はどこだ……。ふむ、これは違ふ……。ぢや、神経で引いてみよう……神……神……。
とま子  (その間に着物を着終り、化粧を手早く直す)
卯一郎  神経性……なんだ……はゝあ……。いや、これでもない……。
とま子  (化粧をすますと、ハンドバッグを取上げ、ショールを肩にひつかけて、部屋を出る)
卯一郎  充血のところかな。充血……充……。ふん、なるほど……。顔面紅潮を呈し……か。時に……鼻孔内の……(ハンケチで鼻をかんでみる)……出血を伴はないからして、先づ、これも疑問だ。おい、奥さん、お前のお父《と》つつあんは、たしか脳溢血で死んだんだね。どんな容態だつたね、その少し前は……覚えちやゐまいな。よし。よし。好い加減なことを云はれても、却つて困る。(頭を前後左右に動かし)首の附け根が少し痛いのは、別段、関係はないか……。いやに、お静かですな。眠つた真似《まね》をしてますね。

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この時、下から女中が膳を運んで来る。
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女中  お粥もございますが、普通の御飯になさいますか。
卯一郎  おや、何時《いつ》の間《ま》にか云ひつけたな。おい、奥さん、もう普通の御飯でもよからうね。第一、お菜がコンニャクぢやないか。さあ、そこへ置いた。(起き上る)なんかもうちつと、身になりさうなもんはないのか。
女中  奥さまがこれでいゝつておつしやいましたもんですから……。
卯一郎  奥さん、ほんとかい。ちよつとこゝへ来てごらん。なんか忘れてやしないかい。それとも、これから、卵焼でも作るのか。ねえ、奥さん……。
女中  (笑ひながら)奥さまは、さきほどお出かけになりました。
卯一郎  お出かけ? 馬鹿云つちやいかん、そこに寝てるよ。
女中  あら、ほんとに、たつた今お出かけになりましたんです。
卯一郎  (手を伸ばし唐紙《からかみ》を開けてみて、別段、驚きもせず)早く飯をつけろ。御給仕をする時は、坐つたまゝするもんだ。さういふ礼儀は覚えとくといゝ。(茶碗に箸をつけると同時に)いかん、やつぱりいかん……(茶碗と箸を下へ置く)下げてくれ。あとにする。(横になる)いざつていふ時は医者を呼べ。津幡を呼べ。大分苦しい。いや、まだまだ……。医者に電話をかける時は、かう云ふんだぞ――「先生にちよつと御意見を伺ひたい」つて……。なに、そいつはおれが云はう。たゞ「至急、お出でを願ふ」と、たゞ、それだけでいゝ。要するに、気休めだ。大丈夫なら大丈夫と、それだけ云つて貰へばいゝんだ。あとは、こつちのもんさ。うん、だんだん苦しくなつて来た。慌《あわ》てることはない。今、電話はあいてるか。誰にも使はすな。奥さんは何処へ行つた。いや、探すには及ばん。こいつは……聊か……。さつきよりもひどいぞ……比較にならん。待て待て。過ぎ去ればよし……さうでなければ、それでもよし……。く……く……苦しい……。まだ、まだ……。おい、何処へ行くんだ。ぢつとして……あゝ、もう、我慢できん……。そら、行け! 早く……。電話だ! 医者を呼べ! 津幡医学士だ。(女中、あたふたと去る)ゐるかな、大将……。芝居なら二時間待てばいゝ。間に合はなかつたらそれまでだ。医者の罪ではない。おれの罪でも、猶更ない。

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電話をかける声。――「は? はい、先生はいらつしやいませんか。はあ、それでは……ちよつとお待ち下さい」
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卯一郎  よし、よし、ゐなければ、ほかの医者だ。誰でもいゝ。近いのを呼べ。手当の必要はない。気安めだ。顔を見ればいゝ。

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女中が上つて来る。
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卯一郎  わかつた。角《かど》の医者を呼べ。松原だ、誰かを走らせろ。津幡の方は、行先がわかつてたら、呼び返して貰へ。あいつでなけれや、話はわからん。(女中、去る)

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電話の声。――「もし、もし、先生のお出まし先はおわかりでございませうか。……では、恐れ入りますが、すぐに、こちらへお寄り下さいますやうに……はい、榊でござ
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