やうで、これは、纏つた註文が、来週あたり取れさうに思ひます。たゞ、ある先生がかういふ意見をもつておいででした。あの掌のところにボツボツをつけたのは、滑《すべ》らないためにいゝ思ひつきだが、どうも、疣かなんかのやうで、見た目にも、感じがよくないから、あれは、横筋のやうなものにしてはどうかとおつしやるんです。
卯一郎  それやもう、試験済みだ。横筋にすると、なるほど縞馬のやうで見た目は綺麗だが、どうももちが悪《わる》い。凹んだ線に沿《そ》つて割目ができるんだ。そんな素人《しろうと》意見は、いちいち取上げる必要はない。ぢや、君、宮内省の方を、ひとつ、せいぜい、せついてみてくれ給へ。数は少くつても、こいつは、肩書《かたがき》みたいなもんだからね。多少運動費を出してもいゝ。それから……ちよつと待つて……。苦しい。もつと離れててくれ給へ。さう側ではあはあ息をされちや、どつちが呼吸《いき》をしてるんだかわからなくなる。
乙竹  お加減がよほど悪《わる》いとみえますね。
卯一郎  さう見えるかい。なるほど、こいつばかりは隠すわけに行かん。病気そのものはたいしたことはないんだが、発作《ほつさ》が猛烈でね。なに、心配はないのさ。話はそれだけかい。あ、さうだ。君の手当のことだが、どうも成績が思はしくないから、この暮は、上げるのを見合せよう。歩合《ぶあひ》の方で、しつかり稼ぎ給へ。これからまだどつかへ廻るんだらう。日が短いぜ。
乙竹  (何か云はうとする)
卯一郎  わかつた。もう一年辛抱し給へ。

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乙竹、会釈して去る。
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卯一郎  奥さん、まだ苦しいかい。おれは、もう直つた。津幡医学士の云ふ通りだ。過ぎ去るのを待つなんて、普通の医者にや云へないことだ。現代の医学は、迷信と絶縁しなけれやいかん。自然に直るものを、医者が直したのだと思はせる時代があつた。子供の出世を、親が自慢した時代だ。おい、奥さん、何時《いつ》までも拗《す》ねてるもんぢやない。おれはこの通り、機嫌よく話しかけてるんぢやないか。ほんとに頭痛がするなら、ちよつと活動の看板を見て来てごらん。足の先が冷《つめ》たけれや、相談でおれが温めてやつてもいい。さうやつて黙つてるが、お前が今何を考へてるか、おれにはほゞ見当がついてる。病気ばかりする亭主つていふものは、あつてもなくつてもおんなじわけだと思つてるんだらう。
とま子  おんなじなもんですか。ない方がましだと思つてるわ。
卯一郎  さうか。二万六千円の貯金は別としてね。だが、おれが死んでも、そいつはお前の手にはひらないよ。子供がないからだ。そいつは知らなかつたね。どうだ。法律つていふもんはうまく出来てる。子供を生まない細君は、亭主の財産を相続する権利がないんだよ。遺言でも書いとかない限り、おれの身代はそのまゝ、残らず唯一人の従弟《いとこ》今田茂七の手にころがり込むんだ。お前は絶対に子供を生まんといふ、そんな厄介なものは欲しくないといふ。おれの切《せつ》なる願ひにも拘らず、四年間、頑張り通した。今だから教へてやるが、おれの夫《をつと》としての心遣ひは、さういふところまで見越してゐたんだ。さあ、なんとか返事をしろ。
とま子  あたしを見違へないで頂戴。二万や三万のお金がどうだつていふの。そんなもの、欲しい人にやればいゝわ。あたしはまだ若いのよ。
卯一郎  さあ、二十八で若いかどうか、いろいろ意見もあるだらう。仮に若いとして、それがどうなんだ。四十六のおれと釣合がとれんとでも云ふのか。今になつて、そんなことを云ふなよ。(寝台から降り部屋の中を歩く)おれだけが二つづつ年を取つてくわけぢやない。今まで、一緒に外を歩いて、笑ふやつが一人でもゐたか。
とま子  父娘《おやこ》だと思ふから笑はないのよ。
卯一郎  さうかも知れん。さう思ふやつにはさう思はせておけ。事実は雄弁だ。この通り、おれは、一個の夫として、妻たるお前の利害を論じてゐるんだ。悪いこと云はないから、もう起きろ。起きて晩飯の支度でもしろ。どうも、足がふらふらする。今朝から何も腹へいれてないせゐだ。あゝ、物を云ふと、眼が眩《くら》むぜ。(寝台に腰をおろす)人間のからだといふのは微妙なもんだ。精がない時は、寝転ぶやうに出来てる。(また寝台にもぐり込む)これがあべこべだつたら不都合に違ひない。
とま子  用がない時は静かにしてて頂戴。お夕飯は六時ときまつてるでせう。
卯一郎  きめたのはおれだ。ぢや、昼食を食はせろ。
とま子  お昼はとつくに済みましたよ。あなたが勝手にあがらなかつたんぢやありませんか。
卯一郎  だから、今食ふと云つてる。
とま子  時間以外の食事は厳禁といふきまりぢやなかつたんですか。
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