医術の進歩
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)普請《ふしん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無責任|極《きは》まる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちよく/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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榊 卯一郎 新案炊事手袋製造業
同 とま子 その妻
今田末子 親戚の女
津幡 直 医師
乙竹外雄 外交員
きぬ 女中
三木 小僧
松原延蔵 医師
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榊卯一郎の住宅兼工場。――相当時代のついた二階建日本家。震災で傷んだまゝの貸家を、更に住み荒すだけ住み荒したといふ状態だが、普請《ふしん》は流石に大がかりで、床柱一つでも、なかなか堂々としたものだ。その階下の幾部屋かを工場に、階上の二間《ふたま》を主人夫婦の居室に充ててゐる。一方は十畳の座敷で、絨氈を敷き、テーブル、椅子など、すべて洋風客間の作り、但し、一隅に、ソファ兼用の寝台があつて、現に、榊卯一郎は、それに寝てゐるのである。隣りは、八畳の純日本間。箪笥、鏡台、長火鉢、その他、ひと通りの家具。不統一のなかに、何処か生活の余裕らしいものを見せてゐる。
舞台は、この二階だ。正面奥は障子を隔てて縁側。
冬のはじめ、午後二時頃、空は晴れてゐる。
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卯一郎 あゝ、痛い、痛い。それ見ろ、誰も側にゐなくつたつて、痛い時は痛いんだ。病気を大袈裟に云ふなんて、おれの性分ぢやない。おい、奥さん、済まないが、また二分ばかり、さすつてくれ。奥さん、そこにゐないのか。(呼鈴を押す)
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女中きぬが上つて来る。
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きぬ なにか御用でございますか。
卯一郎 (鼻を鳴らし)生魚《なまざかな》をいぢつて来たな。云つとくがね、おれはその臭《にほ》ひが何よりも嫌ひなんだ。奥さんには、もう何度も云つた筈だが、お前はまだ来たてで、教はつてなけれや仕方がない。早く下へ降りてくれ。奥さんはなにしてる?
きぬ お洗濯をなすつてらつしやいます。
卯一郎 なに? 奥さんが洗濯? よろしい。それは後にして、大急ぎで来るやうに云つてくれ。(女中去る)おや、腰の痛みは大分《だいぶ》退《ひ》いたぞ。だが、心臓の方は、相変らず面白くない。ドキドキ……ドキ……ドキドキ……ドキ……ドキドキドキ。たしかに面白くない。
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妻のとま子が現はれる。
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とま子 おやすみになつてたんぢやないの?
卯一郎 兎に角、今は、この通り眼をさまして、お前の来るのを待つてるんだ。病気の時だけは、もうちつと傍《そば》についててくれ。洗濯なんか自分でしなくつてもいゝぢやないか。それに、手袋ははめたかい。(妻の手を握つてみる)
とま子 さうおつしやるけど、あの炊事手袋つて、どうしてもあたし、使ふ気になれないんですもの……。
卯一郎 ほかの品物ならわざわざ使ふ必要はないさ。おれが新案を取つて、あれだけ世間へも広めた完全無欠といふ品物ぢやないか。お前がそんなことを云ふと、第一、人聞きもよくない。「滑らず、破れず、外れず」この三大特長を備へた炊事手袋といふものは、今のところ外にないんだぜ。だからこそ、瀬沼商会からは、五万円で権利を買はうとまで云ひ出して来てる。売らんよ、それくらゐの金ぢや……。ぢつとしてても、毎年一万八千円以上の売上げがある。原料が知つての通り安く手にはひるから、利益はざつと六割といふぼろさ加減だ。今時の商売人で、二万六千といふ現金を銀行に遊ばせておくなんざ、夢のやうな話だぜ。あゝ、苦しい。心臓が止《とま》りさうだ。済まないが、そうつと、さすつてみてくれ。
とま子 (右手を毛布の下に差し込み)この辺ですか。あらいやだ、汗をかいてらつしやるわ。
卯一郎 暑いからぢやない。もつと軽く……。ねえ、おれはどうも、あのお医者、信用できんよ。ざつと見たぐらゐで、なんでもないなんて云ふのは、無責任|極《きは》まる話さ。心臓だけは、もうちつとしつかりした医者に見せておきたい。
とま子 あんたのやうにお医者ばかり替へても、却つて為めにならないわ。体質つてもんは、同じ患者を普段手がけてな
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