ね。(急に声をひそめ)あら、よつぽどおわるいの?
とま子 (片眼をつぶつてみせ)えゝ、なんですか、はつきりしないんですのよ。
末子 胃病は、あれでなかなか、あとが大変でね。
卯一郎 (咳払ひする)
とま子 胃の方は、すつかりよくなつたんですの。今度のは、神経痛ですけど……。
卯一郎 (また咳払ひ)
とま子 それに心臓が少し弱つてるんでせうね、時々、苦しがりますの。
卯一郎 (息苦しさうな声を出す)
末子 ほんとだわ。冷《ひや》すかあつためるかしてらつしやるの?
卯一郎 末子さん……いらつしやい。なんでも……ないんですよ。(大きな溜息)たゞね、たゞ……ちよつと。……時に、お宅の方は、景気がいゝですか。(末子の方に笑ひかけ)小さいのは、風邪《かぜ》も引かずにゐますか。
末子 あんまりお話をなすつちやいけないんでせう。
とま子 さつきまで一人で喋《しやべ》つてましたの。
卯一郎 ほ、ほ、発作的に来るですよ。もう楽になりました。医者にはわからんと見える。これや、たしかに、弁膜症といふやつです。あんたのお父さんは、そいつでなくなられたんぢやなかつたかな。
末子 心臓は心臓でしたわ。
卯一郎 人間のからだで、心臓といふやつが一番大事らしい。さうして、一番|脆《もろ》いやうだ。生命《いのち》といふやつは、心臓のすぐ近くにあるんだな。末子さん、うちの細君はね、わたしが病気になるのを、それや嫌《きら》つてね。
とま子 だつて、当り前だわ。
卯一郎 その当り前がさ、末子さんには想像もつかないほどだ。大体、病気つていふものを知らないんですね。あんたはそんなことはない。入院も二度三度されたし、どつちかと云ふと、旦那さんより弱いからな。茂七君は、しかし、なかなか、奥さん孝行だから、あんたは仕合せだ。会社の帰りに、必ず病院へ寄つたといふことも、わたしは聞いて知つてる。だからさ、今度は茂七君が床《とこ》についたといふやうな場合、あんたなら、うちの細君のやうに、いやな顔はしないだらうと思ふんだ。
とま子 あら、何時《いつ》あたしがいやな顔をしました。末子さんがほんとになさるわ。
卯一郎 さうでせう、わたしがからだを大事にするつていふのは、誰のためだと思ひます。子供は一人もなし、親はあつても何処にゐるかわからず、四十過ぎまで独身で来たこのわたしが……。
とま子
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