の種の考察は、なんといふか、賛成するのも気がひけるし、反対するのも大人げないといふ気を起させる類ひのもので、洋画に心酔するものでなくても、さうまあ、日本画の肩ばかり持つてなにになるのかと人ごとながら心配になるのである。
 芸術家といふものは全権大使でも軍司令官でもないのであるから、別に「大人」でなければならぬといふわけあひではなく、「学生」も立派に国民の一階層であり、寧ろ、遠き将来のことを思へば、若いといふことだけにでも期待をもつべきで、少し日本画の歴史を知つてゐるものなら、日本画の今日あること、即ち、日本文化を代表して世界的価値を主張し得ることは当然だと肯くであらうし、やがて数百年の後には、洋画の流れもそこに行きつくであらうといふ見透しぐらゐつけてほしいものである。
 序に、この論者はなにを証拠に文芸の畑では日本的なものを軽蔑してゐると断じるのであるか、私には更に見当がつかぬ。云ふまでもなく、西洋文学の翻訳移入、並びに、西洋作家の模倣追随さへ、日本文学を育て豊かにする目的以外にないことを文学者の一人と雖も弁へてゐない筈はないのである。
 但し、日本の古典に対する教養の不足を責められゝば、私などは第一に顔を赤らめなければならぬが、これは、決して、軽蔑などゝいふ大それた量見からではなく、寧ろ、怠慢といふぐらゐの罪で、強ひて遁辞を設ければ、とかく親類へは無沙汰がちになるといふ不心得に似たものである。

 今月の「文芸」にのつた三枝博音氏の「文学と技術文化」といふ論文はまた示唆に富んだもので、日本研究の重要な資料となり得るものだと思ふ。私もたまたま、最近、西洋の言葉で、「文化」の意味を考へ直してみる機会があり、日本人が文化々々といふのは、どこか身についてゐないところがありさうに思はれだしたので、これを更に、フランス人がドイツ文化を指して特に kultur といふドイツ語をそのまゝ使つてゐる例を思ひだし、国境を接する民族の間に於いてさへ、文化自体の概念のうちにどこか相容れぬ、反撥し合ふものがあることを今更ながら注意すべきであると考へた。
 従つて、一応、ヨーロッパ的教養と云つても、それは、甚だ漠然とした意味に於ける西欧的文化の影響を指すのであつて、厳密に云へば、その根本に於いて、例へば、ドイツ、フランス、イギリスといふ風に、それぞれの文化的特質を身につけるといふことであるが
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