あらうといふので、近頃は畳の上で坐つて本など読んでゐるのをこはごは黙認してゐるやうな次第であつたから、膝が多少曲つてゐる方が見た眼にも美しいといふことになれば、こんな楽なことはないと、その瞬間はほつとした気分になつた。しかし、よく考へてみると、その人の新発見――ではないかも知れぬが、少くとも、新学説は、やゝ腑に落ちぬところがあり、一般の定説がそれで覆らぬ限り、自分の娘の脚を人並はづれて不恰好なものにしておくことは聊か躊躇されないでもない。
 こんなことから、私は、人体の美の標準が、いつたい裸体を基礎として云々すべきものかどうかといふ疑問にぶつかつた。
 この疑問はもうたしかに時局的疑問に違ひないが、それほど、われわれはうつかりしてゐたのである。
 それはまあどつちでもいゝとして、肉体的な魅力に於ける日本人の負け目といふのは、いつたい、どこから来たものであらう? これはやはり希臘彫刻の理想的な美しさといふ概念が何時の間にかわれわれ日本人の頭に植ゑつけられた結果であらうか?
 さうなら、これはなんとかしなければならぬ。かういふ宿命的な劣等感は、民族の自尊心が堪へ得ないところである。それゆえにこそ、例のラヂオ講演となつたものであらうが、私は、そこにも、日本人の現代的悩みがある、所謂洋服といふものを廃止しない限り、その解決は困難なのではないかと思つてゐる。
 また、最近、ある人が日本画の文化的地位について、可なり独断的な、しかし、一応われわれを反省せしめる意見を述べてゐるのを読んだ。要するに、日本画は洋画よりも社会的地位が高く、その芸術的価値も却つて洋画より優位にあると考へられる傾向があり、こゝでは日本的な(或は東洋的な)美が文芸に於けるやうに軽蔑されることがなく、たとへ一部の人には親しまれないにしても、とにかく一応尊敬されてゐる。日本画は洋画の如き学生の芸術ではなく、大人の芸術であると考へられ、市場価値も高く、社会的勢力も大きい。日本文化を代表して世界的価値を主張し得るものは日本的洋画ではなく、世界的な日本画であることは否定できず、今後日本において発達せしむべきものはやはり日本画の方であることも一般に承認されさうに思はれるといふのである。
 これだけの部分をとりあげてかれこれ云ふのは筆者に迷惑であるかも知れぬが、要点はこゝにあるのだから、これに対する私の考へを述べるが、こ
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