私のおかげでひどい貧乏をするかもしれないと思ふと、胸がつまるやうな気がする。
 然し、私は大急ぎでかう考へる。――「彼女はきつと、立派にそれに堪へてくれるだらう。さうして、ますます俺を愛してくれるだらう」

 彼は仏蘭西に生れ、作家となり、しかもその作品のうちで、一度も「姦通」を描かなかつた珍しい人物である。恐らく、この種の空想は、彼には堪へられないものであつたに違ひない。ある作家について、彼は軽蔑の口調を以て云ふのである――妻に裏切られても傑作が書けさへすればいゝと思つてゐるやうな男――と。
 しかし、その彼も屡々夫婦生活の危機を問題とした作を書いてゐる。『日々の麺麭』や『ヴエルネ氏』の如きは、それである。
『日々の麺麭』の女主人公マルトには、たしかに彼の祈願が籠められてゐる。
「……アルフレツドを騙さうなんて気は、毛頭ありませんわ。それにしても、決して騙さないつてことが確かにわかつてたら、それやつまりませんわ、あたくし……」
 これが美しい人妻マルトの言葉なのである。夫の友人で、彼女を讃美する男に対する婉曲な防禦である。
 彼女はかうも云ふ――
「永久に節操を守るなんていふ誓ひを立
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