クスピアを十分に理解し、味得する上の一つの妨げとなつてゐるといふことはほゞ想像し得られるのであります。エミール・ファゲにしろ、或ひは Lemaitre といふやうな、いはば非常に悧巧な、頭のいゝ批評家でさへも、シェイクスピアの殆んど三分通りはわからなかつたやうな批評をしてゐます。例のゲーテが言つてゐますやうに、シェイクスピアは次第にわれわれの眼前にその作品の神秘なものを展開してくれるのであるが、そもそも作品の何処にその謎の言葉があるかといふことは容易に明言が出来ないのです。フランス人はその何処に謎の言葉があるか容易に言へないのがもどかしいのです。そして、そのもどかしいのがフランス人にとつては禁物なのです。フランス人はどういふ微妙なことでも、明言しなければ承知しない。言ひ表はさなければ承知しない。また言ひ表はせるといふ確信をもつてゐる。そして、その自尊心を甚だ傷つけるのがシェイクスピアの作品であるのです。で、ジェミエは言つてゐます、人類の最後のゼネレイションに到つて、初めてシェイクスピアの新しい意味が解かれるだらうと。これはシェイクスピア党にとつては甚だわが意を得た言葉であると同時に、ちよつと擽つたい言葉でもありませう。人類の最後のゼネレイションといふと、何十万年後でありませうか、その時にならなければシェイクスピアが解らない――とも言へますし、また、今日は今日として、よくシェイクスピアが解つてゐても、更に後の時代になれば、シェイクスピアは更に新しい姿になつて生れ代つて来る――といふ風にも解釈されるのです。フランス人中には、かういふ見方をしてゐる者もあるのです。
さて余談ですが、フランスでは――シェイクスピアが入つたのは十七世紀の終り乃至十八世紀の初めからですから、もう可なり年月も長いのですが、その間に、実に多くの人がシェイクスピアに関心を持ち、その作を愛読し、殊に文学者、中でも作家殊に戯曲家は、シェイクスピアの翻訳をして、国人にこれを紹介し、且つ自分の参考にしてゐるといふ人々が大勢あつた。にも拘らず、シェイクスピアは、実際なかなか外国人の間にそのほんたうの姿を現はさないのです。わが日本ではシェイクスピアが紹介されてからまだあまり久しくない。ところが、坪内先生の名訳が早く出た為か、研究的ないゝ訳も別にあることはありますが、更に違つた立場から、深く作品の精神を探らうとす
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