テアトル・コメディイの二喜劇
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)幻象《イメエジ》
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 金杉惇郎君は、なかなかの理論家で、演劇の実際家としても、一つの勇敢な主張を振り翳し、着々、劇界の地歩を占めつつあることは、私はじめ期待と興味をもつて眺めつつあるのであるが、同君は、先頃、「劇作」誌上に、日本の新劇が面白くないわけは、「歌ふな話せ、踊るな動け」といふ古臭い信条を今だに墨守してゐるからで、これからの新劇は、「話すな歌へ、動くな踊れ」でなければならぬ。さうすれば、きつと面白い舞台が見せられる、といふやうな意味のことを述べてゐた。一つの宣言は、常に、華々しい外貌をもつものである。そして、常に、半面の真理をさへ掴んでゐるものである。しかし、この「勇敢な」宣言に対して、私は、「現在の新劇」を標準とし、断乎として反対するものである。
 現在の新劇が面白くないのは、俳優が、まだ「話す」ことを知らず、「動く」ことを識らないからで、欧羅巴に於ける、かの浪漫末期の演技的病弊――即ち、「歌ひ、踊ること」が、如何に演劇を邪道に導き、その堕落を誘つたかを考へれば、今にして、わが新劇が、これを目指すかの如き誤解を植ゑつけることは、甚だ慎しむべき事柄だ。
 無論、金杉君の意図はそこにあつたのでなく、「巧みに語る」こと、「巧みに動く」ことが、如何に「音楽的」であり、「演劇的」であるかを強調するためであつたに相違ないが、なほさら、先づ、「正しく話し」、「正しく動け」から出発し、現在の新劇を面白くするためには、誰よりも先に、俳優をして、「話す」こと、「動く」ことの修行を積ませなければならぬと思ふ。優れた戯曲ならば、それ自身に、既に、ある「心理的リズム」をもち、そのリズムの完全な把握によつてのみ、舞台は美しい幻象《イメエジ》の連続となるのである。これを「歌」と呼び「踊り」と名づけるなら、それは形容であつて、金杉君は、そこまでの論理的準備をされて然るべきだ。
 さて、そこで、十二月の同劇団公演であるが、一つは私の訳になる「我家の平和」、一つは友人岩田豊雄君の名訳「トルアデック」、共に、相当の興味をもつてその二日目を見た。
「我家の平和」は、最初から無理な出し物だと思つたが、果して、不成功。私の予想もしなかつた欠陥が眼について、ただ茫然とするより外はない。金杉――
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