長岡のデュオは、まだこの「生活の味」をこなし切れないことが最大原因でもあらうが、少くとも、あの写実的科白の堆積から滲み出るファンテジイ、日常茶飯のビュルレスクは、「文学的に」誰でもが捕へ得る程度のものである。それを、あの程度まで逸して、どこに、俳優としての面目があらう。私が恐れたのは、ただ、柄の問題だけである。さぞ、青年らしいトリエル、淑やかなヴァランチイヌが出来上ることであらうと思つてゐただけだ。殊に、私が意外に思ふのは、あの脚本のテンポを、何故にああのろのろとしなければならなかつたかといふことだ。不必要で不都合な、つまり見当違ひの「間」をやたらにおき、ために、作者の覘つた瞬間的ユウモアが無残に沈黙の闇中に葬り去られた。最も解り易い一例を挙げれば、ヴァランチイヌが里へ帰ると云ひ出して一度室外に去り、再び「百五十フラン」をねだりに来る場面の如き、たしかト書にもあつたと思ふが、「姿が消えたと思ふと、すぐ引つ返して」来るところに、芝居でなければ味へない可笑味があるのであつて、あそこに、もぞもぞと「間」をおかれては、全く作者クウルトリイヌは泣くのである。皮肉のやうだが、金杉君は嘗て私の演出した「二十六番館」を観て、演出者が戯曲の「最短距離」を選んだ怠慢を攻撃してゐたが、今度は「我家の平和」の演出者(若し演出者に罪があれば)は、この「脚本の指定する道」を避け、わざわざ迂回の労を取つたことに落度があつた。どうか、常に、演出者は、「不必要」な道草を食はないやうにして欲しい。指定があつてさへこれである。厳密に云へば、一とせりふ一とせりふ、その言ひ方と「間」の取り方に私は文句をつけたかつた。トリエルが、「おやおや、おや……」といふ白がある。これを、「やれやれ」に近い意味、即ち「おやおや、たうとうこんなことになつた」といふ時の「おやおや」にしてしまつてゐる。前後の関係で、決して、さうはとれない。「おやおや、さうぢやないのか。これは意外なこともあればあるもんだ」といふ「おやおや」で、云ひ方は、アクセントを、「や」の方におけばいいのだ。これは、勘違ひといへばそれまでだが、「白《せりふ》」に対する普通の感覚で解決もつくし、意味はそのつもりで「言ひ方」を間違へたとすれば、「物言ふ術」の初歩から出直さなければならなくなる。こんなことは、揚足取りでもなんでもない。殆ど一句一句について、もう少し研
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