アンテジイにも心を惹かれてゐるらしく思はれる。彼は、まだ、近代的伝説美の創造をほのめかして、希臘劇の伝統を云々したことさへあるのである。夙に自然主義の病根を「自然の模倣」にありとし、ナチュラリスムに対してナチュリスムを唱へ、自然の外貌を描くことよりも、その本体を、その魂を捉へることの必要を力説した。そしてその本体、その魂を昔ながらの運命に結びつけた。所詮彼は一個の情熱的詠歎家であり、その作品中のみならず、その感想等に於て、詩人らしき幼稚さと善人らしき諄《くど》さを、やや勇敢に振撒いてゐる。
とは云ふものの、千九百年代の初頭に此の作を示した戯曲家ブウエリエは、やはり、一個の先駆的芸術家であつたことは争へない。そこには、在来の写実劇には見られない「感情の昂揚」があり、たとひ比喩の域を全く脱し得ないにもせよ、やや暗示に近き心理描写によつて、次の新しい時代を開いた功蹟は、ポオル・クロオデルと共に仏国戯曲史の一頁を飾る資格がある。
殊に、所謂ポエジイ・アンチイム、即ち、日常生活の中に織り込まれたおのづからな「詩」を、極めて直截な表現を以て、かくも高らかに之を舞台の上に活かし得たことは、何と云つても非凡な才能の賜である。
「子供の謝肉祭」に現はれる人物中、二人の伯母は、如何にも類型的な悪役としか見えないが、これは、最後の幕でもわかる通り、作者が故ら此の二人の人物を、お伽噺の「性悪な巫女《フエエ》」に見立て、その化身として扱つたのである。此の戯曲を読む時、これら二人の人物のみならず、全体の舞台的構成について、ある心構へが必要だと思ふので、特に例を引いたのだが、「写実」と「リリシズム」或は、「事実談」と「お伽噺」、この交錯は、殆ど作品の随処に現はれる。此の二つが渾然融合した時、彼の作品は光り、別々に混つてゐる時、彼の作品はやや頼りないのである。
それともう一つ注意すべきことは、此の戯曲が、極端なまでに舞台上の感覚的効果、即ち、照明、音響、色彩等を勘定に入れて組み立てられてゐるといふことである。
このことは、ほんたうに戯曲を読み得るものなら誰でもわかるのであるが、由来、この種の戯曲は、上演によつて始めてその真価を発揮するので、読んだだけでは、物足らないと思ふ人があるかも知れない。
舞台を悪写実と空疎な装飾から故ら、所謂様式化による舞台の改革を企てようとしたジヤック・ルウシエ
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