躍如としてゐるからである。
 彼は今年幾歳になるか知らぬが、十六の時から詩を作り、二十の頃初めて「無冠の帝王」といふ戯曲を書いた。彼の云ふところに従へば、その前にも戯曲を書いたが、それは「上演不可能」なもので、題は、「新しきキリストの悲劇」とつけたさうである。「無冠の帝王」は千九百六年に上演されてゐる。
 彼は何よりも単純である。その単純さは、しかし、一種信仰に似た力と共に、作品にかのお伽噺のもつ神秘さを与へ、時によると、彼自ら主張する如く、最も惨めな現実の中に崇高な夢を、最も平凡な人間の中に力強い生命を吹き込むことに成功するのである。
 兎も角、「子供の謝肉祭」一篇を読んで先づ感じることは、彼が芸術家である前に、最も善良な人間であるといふことである。一体、あまりに善良であるといふことは、動もすると退屈である。これは悲しむべき人生の皮肉だが、どうも仕方がない。私は、此の戯曲を最初読んだ時に、それほど面白いとは思はなかつた。ところが、嘗て千九百十年に此の戯曲が上演された時の記録によると、更にまた、千九百二十三年、国立劇場コメディイ・フランセエズが、特に此の戯曲をその上演目録中に加へた結果を見ると、私はやや自分の鑑賞眼を疑はないわけに行かなかつた。私は、勉強のために、此の戯曲を丁寧に翻訳してみようと決心した。
 彼の作品は、まだほかに、「ある女の一生」「トリスタンとイゾルドの悲劇」「テエブ王ウディイプ」「勝祝ひ」「王者の悲劇」「奴隷」などがある。「子供の謝肉祭」は、初演当時、殆ど劃時代的のセンセイシヨンを招いたが、その成功の一半は勿論演出の奇蹟的効果に帰すべきであるとしても、此の戯曲が、何処かに、時流を擢んでたある独自なものをもつてゐるからで、その点、私の努力は無駄でなかつたと信じてゐる。
 多くの批評家は、彼の作品を通じて、マアテルリンクの影響が少くないことを指摘してゐる。私も同感である。読者諸君もすぐにそれは気づかれることであらう。ただ此の作者が、その偉大さに於てでなく、思想的に、かのフラマンの神秘主義者と異る処は、恐らく此の仏蘭西人が、所謂自ら云ふところの「良識《ボン・サンス》」を尊ぶあまり、却つて、「良識」ならざる「常識」的人道家の域に止まつてゐるであらう。
 しかし、一方、彼は、ロマン・ロオランの所謂「民衆の為めの芸術」に食指を動かし、シェイクスピヤの自由なフ
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