だ。一口に云へば、読んだ時より、数層倍面白くなつてゐるので、僕は愕き、面食ひ、自分を疑ひはじめた。しかし、なるほど、心を落ちつけて考へてみると、十年前に通ひつめた仏蘭西の舞台が、僕を惹きつけ、つかみ、揺すぶつたのは、実にこれなのだ。現に日本の舞台を観て、仏蘭西のそれとの距りをはつきり感じ、絶えずそのレベルを仰望しながら、さて、年月を経るに従ひ、総ての印象記憶がさうである如く、僕の舞台的|印象《イメエジ》も亦生気と密度を失ひ、一種の「捉へ難き昔の面影」となり終つてゐたに違ひないのである。今、久々で、かのベルト嬢の、フェロオヂイ翁の、そしてかのララ夫人の声と調子が「生なましく」この耳に響いて来るに及んで、総ては急に蘇つた。これでこそ、語られる言葉だ、俳優らしき俳優だと感じさせ、これでこそ、作者も戯曲を書く張合があり、また、これでこそ、芝居は衰へず、劇場は兎も角も芸術的使命を果してゐるのだと、今更ながら、仏蘭西俳優の演技が到達したレベルに嫉妬をさへ感じたのである。そして、同時に、僕自身、乏しき才能をもつて劇作を続ける以上、せめて、自分の書いたもの、人の書いたものが、この程度に肉声化さるべきも
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