を診《み》てもらつてゐる医者が、最近どうも家内に対して、特別に好意を寄せてゐるらしいんです。こちらの内情を知つてからではありますが、診察料も一切取りませんし、来れば必要以上に長話をして行きます。そのうへ、僕の留守中に来て、庭にダリヤの球根を植ゑて行つたり、他所《よそ》から貰つたのだと云つて、香袋のやうなものを家内の枕の下へ突つ込んで行つたりします。それを知つた時、僕はたゞ笑つてゐてやりました。が、その後ある時かういふことがありました。僕が東京から帰つて来て、玄関の格子を開けようとすると、中から錠をおろしてある。それだけなら不思議はないんですが、庭へ廻つてみると、障子が閉《し》めきつてあります。声をかけると家内より先に「お帰りなさい」といふその医者の返事が、部屋の中から聞えるんです。「はてな」と思ひましたが、それきりです。僕は平気な顔をして上つて行きました。家内《かない》は寝台に寝ころんで、今診察が終つたところでした。医者は聴心器をしまひながら「大分いゝやうです。もう大丈夫でせう」と云ひますから、僕は笑つて「や、お蔭さまで」と、自分ながら不思議なくらゐなんの蟠《わだかま》りもなくいつてのけました。医者が帰つてから、家内は玄関の戸締りのことについて、なにやら弁解がましいことを云ひました。僕はそんなことは気にかけてもゐないやうに、今日は招魂祭だのに、国旗を出し忘れたといふやうなことを喋《しやべ》つたと思ひます。かう申上げると、すぐに、それは不自然だとお考へになるだらう。全くその通りです。僕等としては、修養でそこに至つたなどと云へば、それは真赤な※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だといふことがわかります。そこが先程も云ひましたやうに、真実の醜さです。僕にさういふ真似《まね》をさせたのは、露骨に云へば打算です。勘定です。つまり、家内の病気が、あの医者の手で直るものなら、自分は一切眼をつぶつてゐよう――さう決心をしたんです。
声――で、二人の関係が何処まで進んでゐるか、それを君は知つてゐるんだね。
男――いや、知りません。知る必要もありません。医者は家内に対する特殊な興味から、商売を離れて治療に全力を尽してくれればよし、家内は、僕に気兼なく医者の指図に従つてくれゝばいゝんです。それが恋愛であらうとなからうと、結果は同じです。いや、寧ろ、ほんたうの恋愛であることが、一番好い結果を生むわけです。
声――君は真面目《まじめ》で、そんなことを云つてるのか。
男――え? どうしてですか。それで、この僕はどうなるとおつしやるんですか。
声――細君の病気が直つて、その医者との関係が続いてゐる場合を考へてみ給へ。それでも君は一|切《さい》眼をつぶつてゐられるか。
男――(急に焦《い》ら焦《い》らして)なんですか? さういふ場合、僕がどうするかとおつしやるんですか? それは考へてゐません。そんな先のことは、まるで考へてゐません。そん時は、そん時で、何か方法があると思ひます。家内は僕を棄てる筈はありません。
声――落ちついて物を言ひ給へ。君はしかし、細君がもう可なり元気になつてゐたと云つたぢやないか。
男――…………。
声――その医者が、最近来たのは何日《いつ》だ?
男――先週の金曜です。毎週金曜に来ることになつてゐます。
声――その医者は何処の医者だ。なんといふ医者だ?
男――…………。
声――どうせわかることだから、早く云ひ給へ。
男――…………。
声――念の為めに訊《き》くが、その医者は君の考へてゐるやうな事実を否認するかもわからない。恐らく否認するだらう。君は、それに対して何か証拠を挙げられるか?
男――証拠と云つて、別に、確かなものはありません。第一、そんなことはどうでもいゝんです。今度の事件となんにも関係はないんですから……。
声――それはどういふんだね。君にどうしてそれがわかる?
男――いや、僕の云ふのは……その医者が犯人……つまり、家内《かない》を殺したのではなからうと云ふんです。さういふ理由がどうしても成り立たないんです。
声――余計なことを云はなくつてよろしい。この部屋は君がはひつて来た時のまゝになつてるね。
男――家内のからだは、多少位置が変つてゐます。
声――この辺が散らかつてるのは……。
男――あ、それは僕が……。
声――何を探したんだ?
男――失《な》くなつてゐるものはないかどうか、それを先づ調べました。窃盗の目的ではひつたとすると……。(突然調子を変へ)あゝ駄目、駄目、なつちやゐない。しどろもどろだ。(静かに妻の死骸に近づき)シイ坊、やつぱりおれは、生きてゐようといふのが間違ひだつた。お前を失ふ悲しみは二つはない筈だ。おれは二度、三度、お前の死を間近に控へて、心に祈つたものだ――「この女の命を救つてくれ。おれはど
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