に躓いた時、すぐ死んでゐると気がついたか?
男――抱き上げてみてわかりました。無論、病人でしたから、急に容態が悪化して、そのまゝ……。
声――それほど重態だつたのか?
男――いえ、可なり元気になつてはゐましたが、病気が病気ですから、突発的に……。
声――そんな病人に一人で留守をさせるといふ法はないぢやないか。
男――それはさうですが、医者の云ふところでは、乱暴なことをしさへしなければ、絶対に危険はないさうです。それだけの心得は病人にも十分云ひ含めてあります。
声――こゝへ来てどれくらゐになる?
男――一年余りです。患《わづら》つてからは、もう三年になります。
声――病人の看護をするのが、そろそろ大儀になつてゐやしなかつたか?
男――いゝえ、決してそんなことはありません。妻は、僕の変らない愛情と心遣ひに感謝してゐました。僕も、どうかして早く癒してやりたいと、そのためにあらゆる努力を惜みませんでした。
声――たゞ、病人を抱《かゝ》へて、生活の不安と闘ふことは、君にとつて、負担が重《おも》すぎやしないか?
男――重《おも》すぎます。しかし、それを軽くするのには、第一に、病人を健康なからだにしなければなりません。方法はそれ一つです。
声――だが、病人は、君の苦労を察して、自分さへゐなければ、などと時には口に出して云ふこともあつたらう?
男――…………。
声――君の方でも亦、病人に、このまゝ長くかういふ状態を続けさせるよりも、いつそ、不幸な生涯を終らせた方が……。
男――いやいや、絶対に、そんなことは……そんな考へは、夢にも起したことはありません。その証拠に、医者の方で、一月《ひとつき》に一度ぐらゐ来ればいゝといふところを、一週に一度づつ来て貰つてゐます。僕は自分の食を節しても、こいつに滋養分を取らしてゐました。見て下さい。(買物の包みをひらき)これも、家内のために買つて来た肉汁のエキスと、葡萄入りのパンです。
声――現在、他《ほか》の女と恋愛関係はないかね?
男――恋愛関係といふほどのものはありません。道楽もなるたけ慎《つゝし》んでゐます。余裕がないからです。ともかく、僕は家内以外の女を愛してゐないことを明言します。
声――細君の方はどうだね、君の知つてゐる範囲で、特別に懇意にしてる男とか、内証で文通してる男とかいふのは……。
男――僕の知つてる範囲にはありません。仮令、さういふことがあつたとしても、ある程度までそれを許すことが、僕にはできたらうと思ふんです。家内《かない》が求めるものを悉く与へる力が、僕にはなかつたんですから……。
声――それなら、君は嫉妬といふものを感じたことはないか?
男――…………。
声――あるのか、ないのか?
男――それや、ないとは云へません。しかし、さういふ場合に、自分を嗤《わら》つてしまへばそれまでです。僕は女を信じないで、それをさほど苦痛とは思ひませんでした。家内《かない》も、さういふ点では僕に対して、これといふ隙を見せず、自然言ひがかりをつけやうにも、つける種《たね》がなかつたんです。
声――たゞなんとなく怪しいといふやうな素振りがあつたんだね。
男――あゝ、さういふ風に取れましたか。僕はそんなことを言つた覚えはありません。女を信じないのは家内《かない》と限つてはゐないんです。いや家内《かない》のことにしてもです。信じないといふ意味は疑ふ必要がないといふことです。瞞されても、瞞されたことにならないからです。さつき、嫉妬を感じたことがあるといふ風に云ひましたが、それは、例の愚にもつかない妄想の類《たぐ》ひで、女を愛したものなら、必ず一度は経験しなければならない情熱の小さな波紋です。
声――嫉妬の説明はそれくらゐでいゝ。それで君はこれまでさういふ感情を細君の前で、どんな風に現はしたか? 一例を挙げてみ給へ。
男――…………。
声――どんな場合でも、そいつを顔に出さなかつたとは云へないだらう。
男――待つて下さい。さういふ訊《き》き方をされると、僕は、なんて返事をしていゝかわからなくなります。自分の醜さを、正直に語れと云はれるなら、それはなんでもないことです。しかし、その後《あと》はどうなります。僕は今、罪の嫌疑から逃れなければならない人間です。そこをどうか、十分頭にお置き下すつて、自分に不利だと思はれることを包まず申上げる勇気をお買ひ下さい。僕は司直の明察に信頼します。真実はどんなに醜《みにく》くつても、罪がそこからだけ生れるとは限りません。
声――前置が長すぎる。事実を聴けばいゝのだ。
男――さうです。えゝと、もう一度問ひを云つて下さい。
声――だからさ、君が細君に対してなぜ嫉妬を感じたか、さういふ時、君はどんな態度を取つたか、それを訊《き》いてゐるのだ。
男――わかりました。実を云ふと、家内《かない》
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