うなつてもいゝ……。」が、お前の命を救つた男は、おれの手からお前を奪はうとした。事実、奪つたのだ。近頃のお前は、日増しに、美しさと明るさを取戻して来た。しかも、それはあの男によつて、あの男の為めにだ。だが、それはそれでよかつた。おれはたゞ、来るべきものが来るのを待つてゐたのだ。それが、遂に来た。明日は、いや、今日は、また金曜日だ。籾山は、こなひだのやうに、お前を海岸へ連れ出すだらう。散歩の附添は、おれにでも出来る。しかし、お前の心はもう、おれの行くところへ従《つ》いては来ないんだ。そんなら、そんなら、どうしようもないぢやないか。

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長い沈黙。その間に、男は、女のからだを抱き上げ、寝台の上に寝かせ、それを、敷布で覆ふ。
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男――(長椅子にからだを横へ)おれは、しばらくかうしてゐよう。あいつがどんな顔をするか見てゐてやるぞ。おれは、誰がなにを訊ねても、決して返事をすまい。おれは悲しくもなければ怖ろしくもない。たゞ、あの時におれもひと思ひに死ねなかつたことが残念なだけだ。(ポケットから短刀を取り出し、鞘を私ふ)あゝいふ風にしなくつても、おれと一緒に死ねと云へば、存外なんでもなく、その気にならなかつただらうか?(半身を起し)さうだ。シイ坊……お前はさういふところのある女だつたな。すつかり忘れてゐた。おれが学校を馘になる間もなく、お前が恐ろしい病気の宣告を受けた。すると、そん時、お前は、何んと云つた。「あんた、死んぢまひたくない?」たしか、さう云ひながら、おれの膝へ泣き崩れた。今と、その当時とは、お前の気持にも変化はあるだらうが、二人を死に誘ふ動機と云へば、あの時よりも、今度の方が重大だとは思はないか。シイ坊! それがわかつてくれゝば、おれは、今、お前に更《あらた》めて云ふぞ。――死んでくれ。おれと一緒に死んでくれ。(寝台に近づき)さあ、もう暗《くら》がりの必要はない。おれの顔をこの通りみせてやる。お前は素直におれの手にかゝつて死んだのだ。おれは、すぐにも、お前の後を追ふべきだが、シイ坊、少し待つてくれ。おれには、まだ一つ仕事が残つてゐる。籾山のうろたへる顔がちよつと見たいのだ。復讐なんて、けちな真似《まね》をするつもりはない。悪戯《いたづら》のしをさめだ。お前は、さうして、静かに眠つてゐるがいゝ、この世の花々しい※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を、遠くから、笑つて見ておいで。(部屋の中を、また歩き廻る)――やあ、先生、長々お世話になりました。お蔭で、家内も、お医者さんの必要がなくなりました。――はゝあ、もうこちらをお引上げですか?――こちらもこちらですが、われわれは、今日限り、人生を引上げます。さあ、家内が御挨拶を申上げるさうです。
声――あツ! これはどうしたといふんです。え? 一体、どうしたんです。
男――御覧の通りです。こいつは、ある男の誘惑を逃れるために、いや、その誘惑に打克つために、死を択ばなければなりませんでした。僕のためにです。おわかりですか。われわれ夫婦は、さういふ間柄になつてゐたのです。死ぬ以外に二人は結びついてゐられないといふ事実、その事実の前に、何の躊躇がいりませう。僕は、先づ、こいつの心臓を突きました。
声――わかりません。わたしには、さつぱりわかりません。
男――いゝえ、あなたに御迷惑はかけないつもりです。それどころか、こいつにしばらくの希望と幸福とを与へて下すつたことでは、僕から幾重にもお礼を申上げます。
声――わたしは、医者として、出来るだけのことをしました。
男――さうです。信じたいものは、さう信じるでせう、僕は……(よろめく)あゝ、誰を……何を信じればいゝのだ。(急に女の寝てゐる寝台の前に跪《ひざまづ》き)おい、シイ坊……おれは、ほんたうのことを云ふと、なんにも知らんのだ。お前は、何をしたといふのだ。え? なんでもなかつたのか? なにもなかつたのか? うん、それは無論、さうだらう。だが、これから、先は? 来週の金曜は? 再来週は? いや、さうぢやない、もつと先の先は? わかるまい? おれには、それがわかつてゐるのだ。わかつてゐたのだ。お前は健康だ。お前は美しい。お前は若い。お前は明るく、賑やかだ。お前は何処へ行く? 誰がお前を幸福にし、お前に感謝されるのだ! あゝ、おれはどうすればいゝんだ。(手に持つた短刀を胸にあて、ぐいと力を入れて、そのまゝ女の死体の上に突つ伏す)
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[#地から5字上げ]幕



底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「職業」改造社
   1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「文芸春秋 第十
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