た。婆さんは、ずんずん上へ登つて行きました。
――やい、降りろ、糞婆!
――降りなきや、振り落とすぞ。
狼たちは、しかし、此の太い杉の木を揺すぶるほどの力がない。
そこで、今朝、スープで火傷をした狼がかう云ひました。
――お前たち、順々に背中へ乗れ。おれが一番上になつて、あの婆を咬み殺してやる。
――さうだ。
狼たちは順々に背中へ乗りました。だんだん婆さんは危くなつて来る。
――もう少しだ。
一番上の、今朝スープで火傷をした狼が叫びました。
婆さんは、杉の木のてつペんで足を縮めてゐました。
狼の口が、裾にとゞかうとする瞬間です。恐ろしさのあまり、婆さんはつひ粗相をしてしまひました。……」
どツと、笑ひ声が起りました。マドムアゼルP……は、両手で顔を覆ひました。
T氏は平気で続けました。
「婆さんは、恐ろしさのあまり、気が遠くなつて、つひ、粗相をしてしまひました。
――熱いツ! 熱いツ!
上の一匹が、かう叫んだ拍子に、一番下の一匹が飛び退いたからたまらない。梯子はぐらぐらつと崩れ落ちてしまひました。
手を折り、足を挫いた狼たちは、熱いツ熱いツと口々に叫びながら、雲を霞と散りうせました」
笑声はしばらく止みませんでした。
T氏は、徐ろに語をついで、
「ブルタアニュの伝説は、まあ、こんなものです。もつと奇怪な、俗つぱなれのしたのもあります。また明晩……」
マドムアゼルP……は、片手で顔をおさへたまゝ、わたくしの手を握りました。そして、口の中で、「おやすみなさい」と云ひました。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社
1926(大正15)年6月20日発行
初出:「婦人公論 第十年第七号」
1925(大正14)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月18日作成
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