してしまふ演技の因つて来るところは、これら見物の無教養さであると思つた。しかしながら、一方では、「楽天公子」といふ人物の、この程度の「人間味」ならわかるといふことも事実なのである。これは馬鹿にならないものだと思ふ。それなら、あとは、芝居といふものに対する若干の「芸術的要求」があればいゝのである。
 かういふ風な説明にどれだけの価値があるか、私にはまだはつきりした見当はつきかねる。
 プロレタリヤ文学の指し示す「大衆」とは凡そ隔りのあるものであらうが、私が、ぢかに自分の眼で見、心で感じ得る大衆(俗衆とはまた別である)なるものは、結局、「自分を含む現代人の最大公約数」以外のものではない。
 そこで、今度は、大衆的でないものとは、どういふものかと云へば、所謂「専門的」なものを除き、つまり「大衆の心」を心としてゐない奇人変人狂人の作り出したものと云ふことができる。勿論、それらの真似をするものをも含めての話である。
 要するに、私が、ロツパ劇の舞台で観たものは、最も俗な意味に於ける大衆の心を心としたものである点に間違ひはない。
 が、それだけで、見物は満足しないものである。また、この芝居の特色に
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