もならぬ。
それでは、スペクタクル本来の要素はどうかと云へば、個々の材料、例へば、装置とか衣裳とか、俳優とかは別に取り立てゝ云ふほどのことはなく、寧ろ甚だお粗末であるが、最も注意すべきことは、俳優が下手は下手なりにのんびりやつてゐること、鯱こばつてゐないことである。こゝが見物たる大衆の無情なところで、下手な役者が大に自ら卑下して、研究的態度かなんかで、いちいち教へられた通り戦々兢々とやつてゐても、それに同情し、感心し、大に心掛のよさを認めてくれる見物など、先づ「新劇」の見物を除いてはないのである。どうせ役者が下手なら、人を食つてゐる方がよろこぶのである。なぜかと云へば、その方が見てゐて楽だからでもあるが、それよりも、楽な以上に、自然に流れ出るものには、無理にいきみ出すものより、面白いところがあるからである。芝居といふものゝ魅力は、一つには、誘導される快感にあるのであつて、「スポンタネイテイイ」は最も重要な要素である。これを欠く代表的な芝居は実に「新劇」殊に理窟つぽい「翻訳劇」である。
「人を食つてる」と腹を立てるものは先づない。それは、見物自身が、自分もできたらあんなに「人を食つて」
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