してしまふ演技の因つて来るところは、これら見物の無教養さであると思つた。しかしながら、一方では、「楽天公子」といふ人物の、この程度の「人間味」ならわかるといふことも事実なのである。これは馬鹿にならないものだと思ふ。それなら、あとは、芝居といふものに対する若干の「芸術的要求」があればいゝのである。
かういふ風な説明にどれだけの価値があるか、私にはまだはつきりした見当はつきかねる。
プロレタリヤ文学の指し示す「大衆」とは凡そ隔りのあるものであらうが、私が、ぢかに自分の眼で見、心で感じ得る大衆(俗衆とはまた別である)なるものは、結局、「自分を含む現代人の最大公約数」以外のものではない。
そこで、今度は、大衆的でないものとは、どういふものかと云へば、所謂「専門的」なものを除き、つまり「大衆の心」を心としてゐない奇人変人狂人の作り出したものと云ふことができる。勿論、それらの真似をするものをも含めての話である。
要するに、私が、ロツパ劇の舞台で観たものは、最も俗な意味に於ける大衆の心を心としたものである点に間違ひはない。
が、それだけで、見物は満足しないものである。また、この芝居の特色にもならぬ。
それでは、スペクタクル本来の要素はどうかと云へば、個々の材料、例へば、装置とか衣裳とか、俳優とかは別に取り立てゝ云ふほどのことはなく、寧ろ甚だお粗末であるが、最も注意すべきことは、俳優が下手は下手なりにのんびりやつてゐること、鯱こばつてゐないことである。こゝが見物たる大衆の無情なところで、下手な役者が大に自ら卑下して、研究的態度かなんかで、いちいち教へられた通り戦々兢々とやつてゐても、それに同情し、感心し、大に心掛のよさを認めてくれる見物など、先づ「新劇」の見物を除いてはないのである。どうせ役者が下手なら、人を食つてゐる方がよろこぶのである。なぜかと云へば、その方が見てゐて楽だからでもあるが、それよりも、楽な以上に、自然に流れ出るものには、無理にいきみ出すものより、面白いところがあるからである。芝居といふものゝ魅力は、一つには、誘導される快感にあるのであつて、「スポンタネイテイイ」は最も重要な要素である。これを欠く代表的な芝居は実に「新劇」殊に理窟つぽい「翻訳劇」である。
「人を食つてる」と腹を立てるものは先づない。それは、見物自身が、自分もできたらあんなに「人を食つて」
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