にこれらの「新興劇団」は、今日までの芝居がもつてゐないものを、それ自身の性格のなかに併せもつてゐるのである。つまり、「現代の空気」と、「大衆の心」と、「スペクタクル本来の要素」である。芝居はこの三つのどれかをつかんだだけでは足りないので、三つとも揃つてゐなければ「流行的存在」とはなり得ない。
 ロツパには、嘗つての「エノケン」に於ける如く、この三つの特色が、ある程度まで具はつてゐることを私はやはり感じた。品物は上等とは云へないが、用は足りるといふわけなのである。さういふものさへ、今日、ほかにはあまり見当らないといふ大きな原因も考慮に入れる必要がある。
 第一の「現代の空気」であるが、これは、説明の限りではない。次に、「大衆の心」といふのは、とにかく、個人々々の偏向を超越して、世間一般、誰でもが共通にもつてゐる覆面の半身である。必ずしも本能と一致はしないが、寧ろ因襲と常識に結びつき素朴な判断と気まぐれな意志によつて動くものである。従つて、極端な附和雷同性と自由への憧れとを同時にもち公然と正義に味方はするが、道徳的な苦悩は世俗的な意味でしかわからない。常に弱者への同情は惜しまない代り、反省のない冷酷さで人間の弱点を嘲笑し、特権への復讐を快とする半面に、知らず識らず英雄主義、事大主義の虜となつてゐるのである。また、きわどさ、ざつくばらん、を愛しながら、秩序と、儀礼と紋切型を尊重し、絶えず、その両者に色目を使つてゐる。これらの矛盾を矛盾としてゞなく、即ち、矛盾であることを意識せずに、平然とその時々で、都合のいゝ自分をさらけ出すことのできる厚顔しさを身上とする。
 従つて、大衆は安易を求め、自己の優越感を何等かの方法で満足させ、名目と実利との間を彷徨し、偶然をでつち上げることゝ破壊することゝをこもごもやることを楽しむのである。しかも、この「大衆の心」をある程度まで「人間の心」と一致させるのは、その民衆のその時代に於ける文化水準の高さである。
 芝居や小説の大衆性とは、かゝる「大衆の心」に愬へるものであつて、現代日本の文化水準を考へたならば、今日の大衆の心が何に向つてゐるかを考へることは容易である。
 私は、ロツパ劇の舞台を観ながら、見物が何をよろこんでゐるかを見ようとした。結局、彼等は、類型にしか興味を寄せてゐないことがわかつた。「人間的な人間」の面白さを、一歩手前で台なしに
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