ロツパの「楽天公子」
岸田國士
私の分担は「ロツパ劇」である。有楽座の初日を観る。幸ひ、獅子文六の「楽天公子」が脚色上演されてゐる。幸ひといふのは、これならどこか観どころがあるだらうと思つたからだ。獅子文六は私の嘱目するユウモア作家である。パリジヤニズムのラテン的機智と、江戸末期の洒落本調とを現代世相の諷刺に利かしたカクテルが、一種独特な香気と舌ざわりをもつて、恐らく知識大衆の嗜好に投じるであらうことは予想できるが、さて、今日の如何なる劇場が、自信をもつてこの種のヴオドビルを舞台化し得るか疑問である。
さて、古川緑波なる当代の才人も私は若干識つてゐる。彼が俳優としての名声を博して以来、私はまだ一度もその演技なるものに接したことはないが、そこは自分の畑のことであるから、大体見当はついてゐた。緑波の魅力もさることながら、その人気は、寧ろ、ロツパを主演とする興行上の思ひつき、即ち趣向そのものにあることは察するに難くない。つまり、「ロツパ一座」が、ぜんたい、どういふ「手」で見物を惹いてゐるかといふのが私の興味の中心である。やかましく云へば、ロツパ劇の大衆性と、その観客の観劇心理とでもいふものを発見できれば、私の今夜の目的は達するのである。
先づ断つておかねばならぬことは、私は嘗て「エノケン」なるものを三十分ほど見物した。なるほど、「エノケン」は「下町式」、「ロツパ」は「山ノ手」式だといふことがよくわかる。たゞ両者に共通なものは、やけつぱちなところである。
「楽天公子」はロツパの適役であらうが、さういふ見方をしだすと余計な注文をつけたくなる。今のところ、この芝居をまともに批評するのは愚の骨頂だ。如何に娯楽としてみても、まだまだあぶなつかしいところばかりで、よほど芝居といふものを見慣れない見物でなければ我慢して見てゐることは困難だらうと云つて、「新劇」にもそれとおなじところがあるのだから、その点だけなら別に恥にはならぬが、かういふものが商品で通用する時代は何時まで続くか? この一座に、その見透しがあるかどうか?
それはさうと、猥雑なるものは常に「通俗的」であると思ふと間違ひである。大衆は、わりに猥雑なものを平気で受け容れるが、さうかと云つて、その猥雑さになにが含まれてゐるかを見逃しては、大衆の心理といふものはわからなくなる。
「エノケン」の場合もさうであつたが、たしか
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