みたいといふかすかな羨望の如きものを感じるばかりでなく、今度は、あべこべに、「人を食つた」役者を、実は、こつちもそれ以上馬鹿にしてかゝつてゐるからである。大衆はそこにも一種、優越感の満足を得てゐるわけである。「遠慮はいらんからうんと恥晒しな真似をしろ、金だけは払つてやる。どうせいくらでもない。」と、腹の中で云つてゐるのである。この見物の心理を逆に利用するのが、つまり大道芸人である。
「楽天公子」はなるほど芝居になる。もう少し味を利かせ、脚色演出共にコクを出せば、たしかに、現代の芝居として見られるものになる筈である。あんなにくすぐらなくつても、いくらでも笑へる場面や白がある。
 余計なところで擽るもんだから、肝腎の芝居が留守になり勝だつた。
 それにつけても思ふことだが、まあ、この程度の水準をねらつた芝居が、西洋の大都会にもあることはある。たゞ、違ふところは、もつと念入りに仕組んである。やつつけ仕事でない。だから、長続きがするのである。役者もうまくなる、食ひはぐれが少いのである。
 しかし、かういふ種類のものは、一流の劇場では決してやつてゐない。同じ商業劇場でも、劇場主が教養ある社会人である場合は、こんな芝居を上演すると、周囲が黙つてゐない。日本では、それが平気と見える。現に、ロツパ自身にしても、世が世ならこんなことはやらないだらう。世間も許し、劇場も希望し、ひとかどの見物が金を払つて押し寄せるから、しかたがなしにやつてゐるのであらう。
 だから、大衆は、これ以外のものを求めず、これが最後の切札だと思つたら間違ひだ。私が切に、古川緑波氏に望むところは、現在の興行が如何に当つてゐても、徐々に、本格的な訓練を積み、大衆的な性格を失はない限り、いや一層大衆的であるために、俳優群の「人間的魅力」を精神の面で発揮させるやうに今から心掛けて欲しい。



底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「文学界 第四巻第三号」
   1937(昭和12)年3月1日発行
初出:「文学界 第四巻第三号」
   1937(昭和12)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られま
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