ないといふ勝手な「制限」が、却つて、これを「芸術的」に調子の低いものとし、興味索然たらしめることに役立つてゐるのみである。それ故、若しこの形式を独立させるとしたら、やはり「風物詩」の抒情味を生命とするものでなくてはなるまい。
ラヂオ・ドラマの方はどうかと見ると、これも大体、この新様式に対する認識が不十分であるやうに思ふ。といふ意味は、「耳で聴く」といふ観念が先になつてゐるだけで、「耳を通して眼の仮感に愬《うつた》へる」といふ最も本質的なラヂオ文学の要素を閑却してゐることである。例へば、対話による描写を主とすることは、一見ラヂオ・ドラマの本質らしく考へられるが、しかし、その対話が、俳優の直接表情によつて生かされるやうな種類のものは、真にラヂオ的とは云へないのであつて、寧ろ対話そのものが、おのづから明確な表情を連想させ、同時に生活の雰囲気を髣髴させるやうに書かれてゐなくてはならないのである。
もう一つ大切なことは、ラヂオ文学に於ては、舞台劇や映画などと同様、「誘導的」なリズムを生命とするから、眼に見えないためにもどかしさを感じさせ、そのために、幻想を運ぶ心理的「音色」の効果を鈍らせて
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