つて、たうとう云ひ出すのを忘れちやつたわ……。ゐたつて、別にかまはないけど……。いや、たしかゐない筈だわ。西洋人つていふもんは、旅に出る時、奥さんの写真はきつと肌につけてるつて話だわ……。それに、指環は、はめてたかしら……? 何かはめてたやうだけど、エンゲーヂだかどうだか、気がつかなかつた……。会ふと、もう、そんなこと気にしてる暇はないんだもの……。さうさう、あたしの名前を書いてみせろつていふから、書いてやつたんだけど、あの字を覚えるつて云つてたわ。独りで書けるやうになつたかしら……? 藤岡八重子なんて、割にむづかしいわ。

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起ち上り
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――ラ……ウ……ル……リ……シュ……テン……メッ……ケル。これがまた、云ひにくい名つたら、ありやしないわ。面倒臭いから、ラウちやんつて呼んでたの。羅宇屋さんみたいで覚えいゝから……。「あたし、親子、ラウちやんは……?」すると、「ワタシ、ウドン」つていふにきまつてたわ。

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柱にもたれ
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――戯談《じやうだん》は別として、ラウちやんは、ほんとに行つてしまつたのかなあ……。あの、お得意の鼻唄が、まだ耳に残つてるわ。

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それを、調子や声まで真似《まね》て
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――フン、フン、フン、フウン……フン、フン、フン、フウン……フウン、フン、フン、フン、フン、フウン……。

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また、次第に、涙がこみあげて来る。
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――あたしが、これほどに想つてるのに、あの人は、平気だつたのかしら……? 平気で発《た》てたのかしら……。あたしのことなんか、てんで、思ひ出してもくれなかつたのかしら……? そんな筈ないわ。かうして、発《た》つた後へ、あたしが訪ねて来ることも、一度は考へてくれた筈だわ……。お神さんには、たゞの一と言も、あたしのことを云ひ置いて行かなかつたつていふんだけど、「来たら、よろしく」なんて云ふ方が、却つて空々《そら/″\》しいかしら……。かうなると、相手が日本人でないだけに、見当がつかないわ。兎に角、あつちには、かういふやり方もあるんだわ。

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ふと、柱にかゝつてゐるカレンダアを見つけ、それをはづしてみる。
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――四月十七日……あたしが、この前来たのが……四月六日の晩……。十七日までは、たしかにゐたんだわ……。さうだわ、十八日に発《た》つたつて、お神さんから、今聞いたんだわ……。それで、今日が、五月九日……。さうか、あん時、来てても駄目なんだわ、あれが、先月の二十日《はつか》だから……。もう、よさう、こんなこと考へるのは……。

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カレンダアを一枚一枚引きちぎり
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――人はなんと思つたつてかまはない……。あたしたちは、かういふ別れ方をしても、ちつとも不自然ぢやないんだわ。何時《いつ》の間にか、一方が姿を消す……予めそんなことは云はないでゐて……どつちか一方が、それを先にするつていふだけだわ。あの人のところへ、あたしが来なくなればそれまで……あの人だつて、それくらゐのことはわかつてたんだわ。二人は、ちつとも変つてないんだわ。たゞ、時が経つたつていふだけなの……。

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ちぎつたカレンダアの一枚一枚を、無意識に丸めながら
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――なにひとつ、いやな思ひ出も残さず、こんなに綺麗に、一人の人間から離れて行けるつてことは、一生に一度だつてないことだわ。それに……それに……どうして、あたしは……あたしは、こんなに泣きたいんだらう……。

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椅子の上に崩れかゝり、声をあげて泣く。やがて、涙を拭きながら
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――あゝ、さつぱりした。これで、もう、いゝの……。何時《いつ》までかうしててもきりがないわ。どら、お神さんがのぞきに来ないうちに帰らう。もう何処かから口がかゝつて来てるかも知れない……

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起ち上つて、もう一度、部屋の中を見廻す。
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――あたしも、なにか、通ひの仕事をみつけて、この部屋を借りよ
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