うかしら……。家具つきで、このまゝ貸すつもりなんだわ。せめて、さうでもできたら、またなにか……なにか待つ気になれさうだけれど……。

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力なく椅子に倚り
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――このまゝ、またあんなところへ帰るんだと思ふと……どうなるつていふ当《あ》てもなく、毎日検温器を振つててみてもはじまらないぢやないの。

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長い沈黙。
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――おや……なんだつて、こんなに、この部屋に未練があるんだらう……。あの人にだつて、いざ別れようと思へば、もつと思ひきりよく別れられるわ。さうよ、今、此処に、あの人がゐてくれさへすれや、あたしは、平気で出て行かれるんだわ。もう、これで会へないと思へば、なほ威勢よく出てつてやるわ……。それが、あの人のゐなくなつた、この空《から》つぽの部屋から、どうしても動けない……足が云ふことをきかないの……。気持が急《せ》き立てても、からだが承知しないんだわ……。だるくつて、だるくつて、しようがない……。

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静かに起ち上り、寝台の上に、うつ伏せになる。
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――あゝ、苦しい……。

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激しく、肩をゆすぶり
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――さうぢやないのよ。会ひたくつてぢやないわよ……。もう、なにもかもおしまひでいゝのよ……。たゞ……。

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急に、顔をあげ
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――え? たゞ、どうしたの……?

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また、涙声になり
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――たゞ……云ひたいことが、いつぱいあるのよ……あの人に、云ひたかつたことが、今になつて、はつきり、わかつて来たのよ……。どうせ、何を云つても言葉が通じないんだと思つて、今までは、諦めてたんだわ……。いゝえ、それより、云ひたいことを、考へてもみなかつたんだわ……。つまり、云ひたいことがなかつたんだわ……。

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だんだん空想の世界に引きずり込まれるやうに
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――ねえ、わかつてくれる、あんた……? 聴いててくれる? 眼の前で、声が聞えれば、なにを云つてるんだかわからなくても、かうして、離れてゐて、あたしのことを、少しでも思ひ出しててくれゝば、きつと……きつと、あたしの云ふことがわかる筈だわ……。先づ、第一に……あたし、あんたに心からお礼を云ふわ……。なんて云つても、あたしは、仕合《しあは》せだつたんですもの。女としての、重荷を負はない幸福が、あんなに易々《やす/\》と得られたことは、あんたが、何処かほかの男と違つてゐたからだわ。でも、その代り、あたしを、少しばかり褒めて頂戴……。どういふとこか、云つてみませうか。あんたの邪魔にならなかつたところ……。

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起ち上り、やゝ朗らかに
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――あたしは、もう二度と、あんたのやうな男に出くはすことはないと思ふわ。それはそれでいゝの。たゞ、どんな男とでも、次の日の約束だけはしないつもりよ……。

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ゆつくり歩き出しながら、ふと鏡の前に立つて、着物の皺を直す。それから、障子に手をかけ、やつとからだが通るだけ開けて、もう一度、後を振り返る。
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――ラウちやん、さよなら……、また、何時《いつ》来るかわからないわよ。
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底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「職業」改造社
   1934(昭和9)年5月17日発行
初出:「文芸春秋 第十年第六号」
   1932(昭和7)年6月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
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