を引かうとすると、あの人の右手が、いきなり、あたしの手をぎゆつと握つて、どうしても放さうとしないぢやないの。なんの意味か、ちよつとわからなかつたわ。いゝえ、とぼけてるわけぢやないの。実際、相手が男だつていふことを忘れてたのよ。笑はれても仕方がないわ……。でも、そん時、あの人の眼を見なかつたら、あたしは、まだ、戯談《じやうだん》ぐらゐに思つたでせう。そら、やつぱり、あの眼なのよ。あたしは、ハッとして、力|委《まか》せに、手を振り放したの。さうして、部屋を逃げ出したわ。
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つと、また起ち上つて、鏡戸棚の前に行く。からだは正面を向いたまゝ、顔だけ鏡の方へ近寄せ
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――その晩も、また、おんなじやうなことがあつたの。あたしも、今度は、平気で、笑つててやつたわ。ところが、その翌朝、どうしたつていふんでせう、あたしは、たうとう、あの人の手を握り返してしまつたの……。半分、悪戯《いたづら》のつもりで……。
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さう云ひながら、髪に手をやり、ほつれを直す。で、今度は、正面を向いて、笑ひを含みながら
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――そこで、いよいよ退院つていふことになつたんだわ。今夜一晩きりで、もう、この人は、何処かへ行つてしまふんだ……。さう思つてみると、なんだか、このまゝ別れるのが……辛《つら》いつていふと変だけど、まあ、名残惜しいやうな気がしたのね。向うは、無論、それ以上だわ……。
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急に、その辺を歩き出しながら
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――えゝツ、かまふもんか……。誰にも知れつこはないんだ。
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やがて、ぐつたりと、寝台の上に寝ころがり
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――あゝ、あの晩のことは、夢のやうだわ。翌朝は、綺麗さつぱり忘れちまふつもりでゐたことが、あの人のゐなくなつた後で、却つて、あたしを苦しめる種《たね》になつたんだわ。
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急に、頭をもち上げ
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――十日とは待てないで、八日目
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