だかに、あの人の泊つてゐる神田のホテルへ、のこのこと出かけて行つたもんよ……。どんな顔をされるかつてことも考へずに……。でも、よかつたわ……。あの人は、にこにこ笑ひながら、「ヨクキマシタ」つて、背骨が折れるくらゐ抱き締めてくれたの……。

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起ち上り、歩き出す。
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――それから間もなくだわ、あの人が、こゝへ引越して来たのは……。ホテルは不経済だからつていふんで、わざわざ、こんな素人下宿を借りたんだと思ふわ。あれで、なかなかガッチリ屋なのよ。この道具類を買ふんだつて、あたしを一緒に連れてつたのは、安い品物を買ふ手なんだわ。この寝台が三十八円、戸棚が十九円、椅子テーブルで二十二円だつたかな……。西洋人で、あんなの珍しいわ、きつと……。あたしは、もちろん、お金|目当《めあて》にあの人とこんな関係になつたんぢやないからいゝけど、人から、たんまりお小遣でも貰つてると思はれるのが癪なくらゐだわ。さう云へば、附添料の外に二円の心附を受け取つたきり、最後まで、電車賃ひとつ出させたことないんだから……。その点は、大威張りだわ。あゝ、品物……? それは別だわ。去年の夏、京都へ行つたお土産《みやげ》だつて、人形をひとつくれたつけ……。それから、この正月、どつかの店で、メリンスの端ぎれを六尺ばかり買つて来て、勿体らしく差出されたのには、少し間誤《まご》ついたわ。さうさう、御馳走では、竹葉の鰻を食べにはひつたことが一度、あとは、この家で、おそばか丼を取るのがせいぜいだつたわ。だけど、そんなことは、どうだつていゝの。どうせ会ふ日は決《き》められないんだし、不意に来て、一日か二日、そばにゐられるつていふだけで、あたしは満足だつたんだから……。今から考へると、よく、あんな風で、これまで続いたと思ふわ。お互に、名前のほかはなんにも織らず、先々のことも、てんで問題にしないで、たゞ、会ひさへすれば、あんなに……あんなに、愛し合へるなんて、誰も想像できないにちがひないわ……。

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鏡戸棚を開けてみる。
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――おや、まだ掃除もしてないらしいわ……。

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ボール箱を引き出す。
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