立つたことがあるか。
 ――痛い、誰だ、豆をぶつけるのは。


インニツヘン

 国境の上で草を食ふ牝牛、お前が尻尾を向けてゐる方がイタリイだらう?
 返事をしないな。それでは、あのキリストの十字架像に訊《き》かう。


シュワルツェンスタイン

 ローマの古城、今は、何とか公爵の隠遁所。
 金髪の少女が、乳桶を提げて出て来る。
 もう、鶏頭の花が咲いてゐる。


再びメラノ

 ドクトルC……の療養院《サナトリウム》はこゝだ。
 あの男はまだゐるだらうか。
 ――居る。窓に写真の乾板《たねいた》が乾かしてある。

「あたしは、どうしてかう人の名を忘れるんだらう。握手なら百度、散歩なら三十度、踊りなら六七度、接吻なら三度しなければ覚えない。」――と、ブカレストから来た女優といふのが云ふ。
 わたしはどうだらう。

 幸ひなことに、わたしの部屋は、たつた一つ離れて、三階の廊下のつきあたりにある。わたしのところに来るものゝ足音でなければ聞えない。

 食堂へ花束を売りに来る娘がゐる。赤地に緑の縁を取つた前掛をかけてゐる。
 彼女は、黙つて、薔薇を一輪、食卓の花瓶にさし、「いかが?」と云ふ笑ひ方をする。
 金を受け取ると神妙に十字を切る。


シュテルツィング

 此の村はお祭りだらうか。さうではない。家々の窓が、悉く鉢植の花で飾られてある。
 花園に立つ女神は鐘楼である。


ブレンネロ

 久々で停車場を見る。
 石炭の煙を見る。
 鞄を提げた旅人を見る。
 肩の怒つた駅長を見る。


インスブルク

 オースタリイ第二の都会。北部チロルの旧都。
 朝のパンを夕食まで残して置かなければならない。
 エレベータア係りのボーイが最敬礼をする。
 五十クローネの紙幣を握らせる。再び最敬礼。――たつた一銭五厘だ。
 サロン附の部屋に納つて、アイスクリームを云ひつける。
 罰あたり!

 黙々として流れるイイン河の水面を眺めてゐると、眼に涙が滲む。
 なんだ、下らない、泣くやつがあるか。あれを見ろ、あれを、あの夕日を。
 うん、わかつてゐる。しばらく、かうしてゐたいんだ。


三たびメラノ

 八月卅日。食後の果物に葡萄が一房。
 ロシヤ人の母娘《おやこ》三人、あのおしやべりの母娘三人が、昨夜から姿を消した。宿料が二月分たまつてゐると給仕長の告げ口。
「わたくしは、ちやんとにら
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