チロルの旅
岸田國士

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)街《まち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「「|我が息ひの家《ヴイラ・モン・ルポオ》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やもめ[#「やもめ」に傍点]
−−

ヴェロナ

 なるほど、………………………………。
 これがロメオとジュリエットの墓だな。大理石の棺には蓋がない。名刺がいつぱい投げ込んである。
 シェイクスピイヤの胸像が黒い蔦の葉の間からのぞいてゐる。
 そこで、絵はがきを売つてゐる。


トレント

 こんどはダンテの立像だ。見てゐると頸が痛くなる。

 オースタリイ軍に殺されたイタリイの薬剤師を憂国の志士と呼んでゐる。

 ――暑い。何といふ乾ききつた街《まち》だ。


ボルツァノ

 昨日まではボオツン。――南部チロルの古都。
 ホテルの食堂が暗い。


アルト・ボルツァノ

 高原の涼気を、まづ、胸いつぱいに吸ひ込む。
 ××××夫人の山荘を訪れる。――だしぬけではおわかりになりますまい。この婦人は、東京で生れ、ロンドンで育ち、ウィーンとパリで教育を受け、バヴァリヤの士官に嫁ぎ、やもめ[#「やもめ」に傍点]となつて、このチロルを永住の地に選んだのです。
「ほんとに、あたくし、日本が懐かしくつて……」
 それで、日本の子守唄を歌ひます。花咲爺の噺をおぼえてゐます。それから……。
 ――おや、どうしてそんな顔をなさるのです。


メラノ

 メラナアホフ、ブリストル、ベルヴュウ、サヴワ、パラス……。
 ――よろしい、ホテルなら、もう取つてある。

 林檎はまだ小さく、葡萄はまだ硬い。

 アヂヂ川をさしはさむアスファルトの遊歩道路《プロムナアド》、朝顔のやうな日傘の行列。
 音楽堂の「アイーダ」はアルプス猟歩兵聯隊の示威演奏。
 フランネルのズボンが大股に毛糸の頭巾《ポネエ》を追ひかける。

「御紹介いたします、こちらは、なんとかモンチ公爵夫人、こちらは、なんとかスキイ伯爵」
 ウイ……ダア……シイ……ヤア……イエス……さやう、さやう、こいつはたまらない。


トラフォイ

 海抜三千五百メートル。チロル・アルプスの絶頂。
 世紀は星の如く流れる。
「未来」そのものゝ如き低雲に囲まれた広漠たる大氷原に、君は、たゞ一人、
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング