関係者は、僕の見るところ、よく今まで根気が続いたものだと思ふくらゐだ。遥かに光明を目指して、しかも光明から遠ざかりつつあることを知らなかつたのであらうが、少くとも、それに近づきつつあると思へぬ道を、よくも歩きつづけたものだと、心が傷むくらゐだ。なかには落伍したり、身売りしたり、いらざる道草を食つたものがゐるにはゐても、それらの人々を責める権利は誰にあらう。
(4)[#「(4)」は縦中横]、批評家の不親切よりも、その無定見は非難さるべきである。しかし、意見もあり、親切でもあつた批評家が、どれだけ「新劇」に裏切られたか? 批評家は決して、「新劇」の生みの親ではない。しかも今日、批評家は、まだ、甘い伯父さんではないか? 偶然の出来栄など、その物だけで褒めそやすことは、今日、批評家としては不必要だと思ふ。ただ無益な弥次は、天に向つて唾する類であることを知ればよい。劇作家については、僕自身もなんとか返答をせねばならぬ。実を云ふと、目下考へ中である。内村君、そのうちに、直接お目にかかつて、素晴しい弁解をします。
[#ここで字下げ終わり]
 が、兎も角、僕も内村君と同様、今日の「新劇」をなんとかせねばならぬと考へてゐる。これは人のことでなくて、自分自身の問題であるから、批評としてでなく、実行として何等かの覚悟が必要である。

     そこでまづ手始めに

 僕は現在の周囲から、「憂を倶にする」人々をピック・アップして、一種の「演劇クラブ」を作り、あはよくば一つの「新運動」を起したいと思ふ。
 そして、それは当分、極めて小規模に、且つ極めて気永にやつて行くつもりである。
 そのグルウプは、作家、俳優、演出家、及び、純然たる素人から成るものであつて、何れも「語られる言葉の美」に関心をもち、「物言ふ術」の具体的研究に興味と野心を有する人々に限られる。
 会合は月に一回の予定であるが、会員は総て「言葉の俳優」たる資格試験をパスしなければならず、例会には、交互に、「その研究」を発表する権利と義務を負ふものである。
 事、芝居に関しては、仏頂面と四角四面は禁物である。但し、礼節の範囲に於て批評の自由は保たれ、一座を白けさせない程度に「天狗」たることは妨げない。そこでは、羞恥は美徳にあらず、アヴンチュウルは犯罪と見做されるであらう。
 既に若干の申込者がある。何れも年齢二十より五十歳までの紳
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