渡すと、多くの戯曲作家、演劇評論家、劇団関係者(無論俳優を含む)が、いつまでも、口で「新劇新劇」と唱へながら、以上の問題に無関心であることが察せられる。
 それゆゑ、大勢に於て、わが国の「新劇」は、三十年来、少しも進歩してゐないのである。
 嘗ては「新劇」の敵国であつた「歌舞伎」や「新派」が、相変らず劇壇の中心勢力であり、その勢力のなかに、動もすれば「新劇畑」の人々が捲き込まれ、吸ひ寄せられる奇怪な現象は、抑も、何に原因するかを考へてみるがよい。それもまだ、歌舞伎や新派が、この現象によつて、「多少でも」新劇的栄養を摂取するといふのならよろしいが、そんな気配は露ほども見えぬ。単に、一時的の便宜に、目先を変へるための装飾に、「新劇的材料」が使用されてゐるにすぎない。
 僕の嘱目する批評家内村直也君は、三田文学誌上で、「新劇は何故盛んにならないか」といふ疑問に答へてゐる。
「新劇」を「現代劇」の意に解せよといひ、これを「前衛劇《アヴァンギャルト》」と区別するの必要を説くあたりは、僕も大賛成であるが、その新劇が盛んにならぬ理由として、(1)[#「(1)」は縦中横]資本家のゐないこと、(2)[#「(2)」は縦中横]新劇によつて食はうとしないこと、(3)[#「(3)」は縦中横]新劇関係者に根気がなく、また道草を食つてゐたこと、(4)[#「(4)」は縦中横]批評家が不親切で、劇作家が眠つてゐること、言葉は多少違ふが大体以上のやうに結論を引出してゐる点に関して、僕は、多少、云ひ分があるのである。
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(1)[#「(1)」は縦中横]、今日までの「新劇」は商品にならぬから資本家がつかぬ。これをどうすれば商品にし得るかといふ見当がつけば、金を出すかもしれぬが、さういふ見当をつけさせるやうなものさへ、これまでの「新劇」にはないのである。早く云へば、発展性が見られぬ。
(2)[#「(2)」は縦中横]、「新劇」によつて食はうとしたものは、これまでにも随分あつた。ところが、さういふ意志と希望にも拘はらず、それが駄目だつたのである。原因は内村君も云つてゐる通り、現在のやうなやり方をしてゐるからだ。そんなら、どうすればよいか? 企業形態を整へるのもよからう。が、それより前に、新しい芝居の「面白さ」を正しく認識せねばならぬ。
(3)[#「(3)」は縦中横]、新劇
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