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多田  これで世の中は思ふやうにならんもんさ。あんたが働くつていへばすぐにでも雇ひ手があるんだがなあ。
彼女  あたし、ちよつと、買物に行つて来るから、そこに、さうしてゝね。
多田  その間、ベツドを借りてもいゝでせう。今朝から歩きづめで、どうにもやりきれない。
彼女  馬鹿なこといひつこなしよ。そんなに草臥れたなら、さつさと家へお帰んなさい。
多田  よろしい。意地悪をいふなら、たつて借りようとはいひません。あんなベツドがなんだい。貸間備附のピヤレツスが、そんなに神聖なのか。
彼女  面倒臭いなあ、靴下を穿くのは……。
多田  僕で出来る買物ならして来てあげますよ。
彼女  ほんと……? ぢや、お願ひするわ。晩のおかずよ。
多田  え?
彼女  フイレの厚切れ三枚……それとトマトの中ぐらゐのを、五つ……。それから、あんた、パンがよかつたら、パンを買つてらつしやい。
多田  しかたがない。(起ち上る)金は……?
彼女  どうぞよろしいやうに……。(もう炊事場に姿を消す)肉屋は、停車場の前の方が勉強するのよ。

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多田は、しぶしぶ外に出て行く。
やがて、彼女は、フライパンを紙で拭きながら現れる、さつきの鑵の中から、また疳癪玉を取り出し、床に叩きつける。
爆音。
彼女はそのまゝ、窓の外を見てゐる。
涙がこみ上げて来る。
長い間。
ドアが開く。彼が帰つて来る。
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彼女  (後ろを振り向かずに)あら、どうしたの。帽子でも忘れたの?
彼  そんなとこで、なにしてるんだい。
彼女  (その声で、ハツと気づき)お帰んなさい。(さういひながら、フライパンを持つたまゝ、いきなり、夫の頸に抱きつく)
彼  どうしたんだい。泣いたのか。
彼女  うん、泣いたの。
彼  なにが悲しかつた?
彼女  ムニヤムニヤムニヤ……。(笑はうとする)
被  さ、どけ。飯はまだか?.
彼女  (離れて)駄目だつたの?
彼  そんなことはいゝから、早く飯を食はせろ。
彼女  いますぐよ。そら、瓦斯の音が聞えるでせう。あつたかい御飯でビフテキが食べたいつて、あんた、さういつてたぢやないの。さ、外套脱がしてあげませう。

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彼は、彼女に外套を脱がして貰ふとテーブルの方へ手を伸ばす。鑵
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